連作短編2

 

(9)

        

「あの話は、本当なんですか?」
 核心を突く質問に、佐穂は己の顔が強張るのが解った。しかし隠し通す必要はもう無いだろう。消え入りそうに細い声で、肯定を返した。
「はい。……テレビ局の人が、撮り直しをしましょうと言って……私はまだ子供でしたので、それに頷くことしか出来ませんでした」
  佐穂は小学生時分、「天才暗算少女」と呼ばれ、珠算の世界ではちょっとした有名人だった。
 珠算競技会の全国大会でも連覇を達成するほどの才能で、それが評判を呼び、あるテレビ番組から声が掛かったのだった。
  小学生が、何桁もある足し算、引き算をあっという間に解いていく。
それは多くの大人たちからは喝采を浴び、子供たちからは羨望のまなざしで見られる筈の企画だった。
しかし、佐穂には決定的な弱みがあった。極度の上がり症で、観客が大勢見守る中で計算に集中するなどと言う事は、佐穂に取っては有り得なかったのである。
「私は、最初の問題を間違えました。そこに居た人たちも、みんな溜息を付いて……。そしたら、ディレクターさんと言うんですか? その人が『これじゃ番組にならないから、これは無かった事にして、もう一度やってみましょう』って」
佐穂には、良いも悪いも無かった。その指示通り一度目の失敗は無かった事になり、放映された分には、二度目という事もあって成功した佐穂の姿ばかりが映っていた。
「スタジオに来ていた人が、佐穂さんを覚えていたんでしょうね」
「……だと、思います。私はネット上で、”嘘つき”と呼ばれました。もちろん、ビジネスはちゃんとしたものです! でも……」
その続きは、言われずとも解るだろう。
それだけの騒ぎになってしまった会社にはスポンサーが付かず、結局佐穂の夢は断たれた。たかがネット、とあなどる事は出来ない。そしてひとり傷ついた佐穂は、表舞台から姿を消した……。
数時間にも感じられるほど長い沈黙を経た後、佐穂は己に問いかけるようにぽつりとこぼした。
「人は、一度でも過ちを犯せば……ずっとその罪を背負っていかなければいけないのでしょうか」
「佐穂さん」
「私は、誰も騙すつもりなんて無かった。確かにあの時の失敗は責められるべきことでしょうけれど、それでもその過ちを犯してしまった事で、私は誰からも信用に足る人間とは認められなくなってしまったんでしょうか……!」
もはや、絞り出すような声、だった。
今度こそ光を反射するほどに潤んだ佐穂の目を、切なげとも取れる眼差しで、野島が見つめている。そこに、嘲りや貶めるような色が浮かんでいない事だけが、今の佐穂を救っていた。
  やがて暫く考え込むように下を向いていた野島が、ひとつ呼吸を置いて口を開く。
「子供達は、きっと貴女を信じています」
ハッとしたように、佐穂が目を見開く。今まで、そのような考えに思い至った経験は無い。佐穂は自身を振り返るように己の握った手をじっと見つめると、小さく首を振った。
「今は、そうでしょう。しかし真実を知れば、きっとあの子達も」
「そうでしょうか」
”信じてくれる筈が無い”と続けようとした佐穂を、野島が遮る。佐穂のほうが驚くくらいの、自信に満ちた声だった。
「あの子達は、”今”の貴女を見ているんです。だからこそ……真実は、ご自分からお話になるべきでしょう」
「私が、じぶんから……」
「ええ。人間は誰しも失敗する。それは当然で、ちっともおかしな事じゃありません。だからこそ、練習して、もっと上手くなろうとする。何かを成し遂げるためには、その繰り返しが必要なんだと、僕は思います」
視線を止めたまま考え込む佐穂を横目で確認しながら、野島が女将にビールを頼んだ。
「あの……」
戸惑ったように野島を見返すと、彼は承知しているというように頷き、初めて会った日と変わらぬ笑顔を佐穂に向けた。それはやはり幾分幼げで、少年のようにも見える笑みだった。
「大丈夫。僕も今日は歩いて帰ります。乾杯しましょう」
「何にですか?」
未だ不安げな表情を保ったままの佐穂にグラスを持たせて、黄金色の酒を注ぎ入れていく。グラスの縁まで達した泡が、快い音を立てる。弾ける気泡を見ながら、野島がうーんと考えんだ。
「僕達を引き合わせてくれた”そろばん”に、かな。そろばんを弾いている佐穂さんは、やっぱり格好良かったですよ」
きょとん、と見返す佐穂は、驚きに涙も忘れた。その瞳にもう一度笑みを返して、野島はグラスを上げた。見る間に近づいたそれがチン、と鳴り、止まったままだった佐穂の時間は再び流れ出す。
「野島さん」
「はい?」
「そろばんって、何の木から出来ているか知っていますか?」
「えーと……不勉強です」
ぽり、と頭を掻いた仕草に、思わず笑みが零れる。どこか吹っ切れたような気持ちで、佐穂はグラスの中身を見つめる。
「樺の木が多いんです」
「かば、ですか」
「ええ。……ご存知ですか? 樺の木って、とても強いんですよ」
そう言ってビールをぐいっと飲み下した佐穂が、何を言わんとしているかを理解したのだろう。野島は安心したように、胸に大きく息を吸いこんだ。もう、大丈夫。きっと佐穂は明日からも、笑顔で子供達の前に立てる筈だ。

「僕に取っては、とても、やさしい木ですけどね」
幾分の照れを感じさせながらも伝えられた言葉に、酔いからだけでは無く赤い顔をした佐穂は、それでも嬉しそうに笑って見せた。


< やさしい木―そろばん塾― 了>

 

 


 

 

[09年 08月 24日]

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