(7)

 冷えたおしぼりに手を伸ばしつつ店内を見回せば、今日のオススメはアジらしい。魚が好きな野島には嬉しいメニューだが、果たして佐穂はどうだろうか。
「何にしますか?」
 メニューを渡しながら聞けば、佐穂はうーん、と考え込む。
「何でも、結構です。お任せします」
「嫌いなものとか、無いですか?」
「特に、無いですね。あ、貝類はちょっと苦手ですが」
 すみません。というように佐穂が肩をすくめる。気にしないで下さいと笑って、女将にいつものように任せる事にした。
「飲むものは、どうします? お酒を呑まれるようでしたら、どうぞ。僕は今日飲みませんから、お家までしっかりお送りしますので」
 なるべく警戒されないように、言葉にも気を遣う。そうは言ってもそんなに面識があるでも無し、あまり図々しくなるのも、野島の好みではない。
 案の上少し考えた風の彼女は、いいえ、と首を振った。
「ウーロン茶で結構です。元々そんなに呑むほうではないので」
「呑んで、騒いだりもしませんか?」
「そんな、相手がいませんもの」
  はんなり、と笑う佐穂は、だいぶ野島に心を許してくれているのだろうか。そう思うと、野島の心はわずかに躍った。その後は、先日の特集に当たって野島が訪 れた、いくつかの塾の話題に花が咲いた。習字、英語塾、ピアノ……ダンススクールで子供達に混じって踊ったけれど、全く付いていけなかったと野島がこぼす と、佐穂は軽やかな声を立てて楽しそうに笑った。
「体験取材が、僕の信条です」
「どれが一番面白かったですか?」
「うーん。そうですね。どれもそれぞれに特徴がありましたが、やはりそろばんには嵌ってしまいましたね」
 お世辞で無くそう言うと、佐穂は少し嬉しそうに頬を染めた。
「ありがとうございます。そう言って頂けると、嬉しいです」
「僕の同僚にも、何人かそろばんに通っていた人がいましてね。自分は何級まで取ったとか、自慢話で盛り上がりましたよ」
「私達の頃は、通っていた人も多かったですから」
 互いにアジの揚げ物と刺身をつつきながら、頷き合う。これでビールがあったら最高なんだけどな、と少々残念な気持ちは隠せない。
「……競技会は来週でしたっけ。代表は決まりましたか?」
「ええ。一番級が上の女の子に、出てもらうようになりました」
「佐穂さんも、子供の頃は出ていたんですか?」
 精一杯のさりげなさを装って聞いたつもりだったが、箸を持った佐穂の手が明らかに緊張する。
 それを横目で眺めながら、ああやはり、と確信にも似た思いを持った。
「そう、ですね。あの頃は、塾で二、三人は参加していたと思いますよ」
 努めて冷静に返そうとする佐穂が痛々しい。やはり彼女の傷はそこから繋がっているのだろうと思いながら、始めてしまった話を途中で止める気にはなれなかった。
「その頃の種目は、どんなものだったんですか?」
 柔らかく尋ねたつもりだったのに、佐穂の肩が跳ね上がる。そして、今まで穏やかだった佐穂の瞳に、疑念と警戒の色が混じるのを、野島は身を削られるような思いで見つめていた。
 やがて長い沈黙の後、佐穂が全身を見えない鎧で守るようにしながら、堅い声で聞いた。
「……何が、おっしゃりたいんですか?」
「佐穂さん」
「そんな目的で、私を食事に誘ったんですか」
「佐穂さん、待ってください」
「失礼します」
「佐穂さん!」
 椅子から勢い良く立ち上がろうとする佐穂の腕を、咄嗟に掴む。佐穂は振りほどこうと手を振ったが、ここで離す訳にはいかない。
 カウンター席にはふたりだけだが、後ろにある畳の部屋には数人の客がいる。なるべく声を押さえるようにして、野島は佐穂に懇願した。
「佐穂さん。聞いて下さい」
 嫌々と首を振る佐穂の顔を下から覗き込んでも、佐穂は目を瞑るばかり。そうして暫く。佐穂の口から出てきたのは、野島が想像もしていないものだった。
「もう……許してください……」
 


 

 

[09年 08月 22日]

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