(5)

「なーに、ニヤニヤしてんのよ。マジメ正(ただし)!」
 後ろからドン!と背中を叩かれた。振り向かずとも、誰かは解る。この編集部一、豪気で、きっぷが良くて、男前の……。
「……痛いです。理子先輩」
 ”理子”という名前が示す通り、彼女は歴とした女性の筈だ。しかしこの持ち前の気性と男っぽい外見から、どうしても性別を間違えて生まれてきたようにしか、思えない。……もちろん本人に言えば、焼肉を奢るくらいでは済まされないだろう報復が返ってくる事は、目に見えているが。
「それから、何度も言いますが、僕は”野島(のじま)正”です」
「あれ? そうだっけ?」
 澄ました顔をする理子には、何を言っても無駄だ。そうやって黙っていれば、そこそこ綺麗なのにと思いつつ、野島は理子の手に持った書類に目を遣った。
「ああ、来月号のゲラ、上がってきたよ。宜しくね」
「そう言う事は、先に言って下さい」
「あら、やる気ね。って言うより、ねえ野島ちゃん」
「はい」
 理子の目が、楽しそうに細まる。それは丁度、獲物を見つけた猫科の動物が見せるそれで、どちらかと言えば犬科の自覚のある野島は、思わず身構えた。
「この間から、なーんか、楽しそうよね。……良いことあった?」
 さすが、ダテに敏腕ライターの看板を背負っているのではないらしい。
 彼女の書く記事は、いつだって的確で、時代の必要性を良く知っている。その先見の明は、男性部員も一目置く所である。まして彼女の持つ情報量たるや野島の比では無くて、一ヶ月に彼女が読む雑誌類の数ときたら、本当に彼女の一ヶ月は三十日なのだろうかと思うほどだ。
「ありませんよ」
「嘘」
 やんわりと否定すれば、即座に反論が返ってくる。彼女は既に確信を得ているように、野島の机にあった書類の束をパッと掴むと、その下にあるものに指を突きつける。
「これなーんだ。野島ちゃん」
「あっ」
 途端に顔を赤らめた野島に、勝ち誇ったような笑みを向けると、理子は野島の前で指をチッチッと振って見せた。
「いけないねえー。野島ちゃん。先輩に嘘ついちゃいけないわ」
 いかにも楽しげに口の端を挙げた理子を、赤い顔をした野島が睨みつける。しかしその目には怒りは籠もっておらず、どちらかと言えば羞恥と当惑が見て取れる。
「……見たんですか?」
 これ、と野島が心持ち写真を手で隠しながら、呟く。相当大事なものらしい、と見当をつけた理子が、野島に向かって首を振って見せた。
「いーえ。この間ね、野島ちゃんが仕事してる姿をたまたま見てたのよ。そしたら、机に向かって微笑んでるじゃない。びっくりしたわ」
「そんな事、してましたか?」
 全く自覚が無かった野島にしてみれば、ただただ赤くなるばかりだ。己がそんな姿を仕事中に晒していたなどと思うと、恥ずかしさに顔が上げられなくなりそうだ。
「うん。まあ、他の人は気付いて無いと思うから、これからは注意しなよね」
「はい」
 己の失態を指摘された野島は、ますます縮こまる。
 今は編集部があらかた出払っていて、野島と理子の会話を聞く者はほとんどいない。だからこそ理子は野島に話し掛けたのだろうが、野島は恥ずかしさに唸るばかりだ。
「で? それが、この間言ってた、そろばん塾の先生?」
 ずばりと聞かれた。
 そろばん塾に取材に行ったこと。とても楽しく有意義な取材で、時間を忘れてそろばんに没頭したことなどは、以前に理子に話してあった。彼女の担当するのは別のコーナーだが、一応先輩として、理子は野島に様々なアドバイスをくれたのだった。
 思わず弾かれたように顔を上げたが、きっとそれが答えになっただろう。それでも、無言で答えを待つ理子に、小さく頷く。
「ふーん。ねえ、ちゃんと見せてよ」
「ええっ?」
「いいじゃないの」
「ちょっと、理子先輩!」
 止める間も無く、彼女は野島の手を机から退ける。力を込めようとしたが、一瞬遅かった。
 デスクマットの隅に小さく貼られたひとつの写真。それは理子の目にする所となり、彼女の目が輝いた。
「へえ。可愛い人ね」
「……はい」
「告白した?」
「まだですよっ。っていうか、会ったばかりですから!」
 今度会う時には、食事に誘おうとは思っているけれど。とてもそこまで一とびで行ける訳も無い。
 あたふたと写真を隠そうとする野島に対して、暫くじっと写真を見つめていた理子が首を捻る。
「ちょっと待って……その人」
「なんですか?」
 まだ何かあるのだろうかと顔を上げれば、思いがけず真剣な理子の表情にぶつかった。これは、いつも楽しい先輩の目では無い。ネタになりそうな記事を追う、”記者”の目だ。
「アタシ、見た事ある。その人」


 


 

 

[09年 08月 20日]

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