(4)

 一時間もする頃には、野島の手付きもだいぶ慣れたものになり、そろばんを弾く手にも迷いが無くなって来た。
 そろばんに触れるのは小学校以来とい う野島は、予想に違わず、ほとんどそろばんの基礎を覚えてはいなかった。それでも小学生の子供に教えるが如く、基本中の基本から教えたせいで、彼の記憶も 幾分は戻ったらしい。『懐かしいなあ』『ああ、こんなのやりました』という楽しげな言葉が出始めた頃から、彼は目に見えるように上達し始めた。
 彼自身の飲み込みの速さもあろうが、彼の成長を助けているのは、何よりもその素直さなのだろう。
 ”体験入学”との言(げん)は、嘘や出任せでは無いらしい。少なくとも佐穂の目には、彼は真剣にそろばんを学ぼうとしているのだと見えたし、その上達振りの程を見ても、生半可な気持ちで取り組んでいるのは無いのだろうと思われた。
「凄く、お上手になりましたね」
 暫くの間、”見取り算”のプリントを渡して自主練習をしてもらった野島に、声を掛ける。彼はこれまた久しぶりであろう「えんぴつ」を右手に持ちながら、照れたように顔を上げた。
「あ、はい。なんだか楽しくなってきました」
「それは、良かった。パソコン以外でこんなにも指を動かす事なんて、無いですものね」
「ええ。それもありますが、自分がもの凄く集中しているのが解ります」
 それは、佐穂も珠算競技を行う際に感じている事だった。
 もちろんパソコンのキーを叩く時も、己がディスプレイと真剣に向き合っているのを感じる。しかし珠算の必要とする集中力というのは、例えば掛け算ならば、指で答えを弾きながらも、頭の中で九々を計算するという連動した動きを必要とするものだ。
 セルに打ち込んで答えが弾き出されるのとは、また違った快感。自分で手に入れた「答え」と、「回答」がずばり一致した時の満足感。それは、そろばんの持つ一つの魅力なのだろうと思う。
「この問題では答えの桁数も大した事はありませんが、級が上がるにつれて、大変な桁を計算しなければなりません」
「僕なんか、コンマの数だけでは桁数が解りませんよ」
 苦笑しながら、野島が答える。もちろん、銀行員では無い通常の勤め人ならば、そうであってもおかしくは無いのだが。
「これが、掛け算になってくると、また大変なんです」
「掛け算ですか。……私でも、出来ますか?」
 そう言われて、佐穂は少し悩んだ。もちろん、大人である野島ならば、掛け算まで習得する事が出来るだろう。しかし、あくまでの取材のための”体験入学”なのだから、そこまで踏み込む必要も無い気がする。
 佐穂はゆったりと微笑むと、野島を見返した。
「もちろん、大丈夫だと思いますよ。でも、体験入学なのですから、そろばんの楽しさを解っていただければ、それで結構ですよ」
「解ります。解ります。もっと子供の頃、きちんと習っておけば良かったと思います」
 そこまで言い掛けると、野島は『あっ』と小さく叫んだ。
 何事かと驚く佐穂を照れたように見返すと、野島は自分自身に言い聞かせるように頷いた。
「そうなんですよね。この気持ちを素直に記事に書けば良いんですよね。なんだか、記事の方向性が見えたような気がします」
「……それは、良かったですね」
 些か興奮気味に頬を紅潮させる野島は、まるで子供のようだ。柔らかな気持ちで彼の姿を見つめれば、その後ろにある壁掛け時計が目に入る。そろそろ教室を閉めなければいけない時間だ。
「ちょっと、失礼しますね」
 そう言って立ち上がった佐穂に合わせるように、野島もカメラを手に立ち上がる。
「あ、いけない。最後に少し写真を撮らせて頂いても宜しいですか? 自分の練習にばかり夢中になって、肝心の取材を忘れていました」
「解りました。もう少しで終わりの時間になりますから、お早めにどうぞ」
「はい。すみません」
 先ほどの『約束』を再確認する必要は無いだろう。きっと釘を刺さずとも、野島は子供達の姿を撮るような真似はすまい。
 短時間ながら、これまでの関わりで、佐穂はすっかりこの野島を信用する気になっていた。素人の佐穂にはどう違うのか解らないが、野島は鞄からデジカメを出し、肩から掛けた大きなカメラと共にレンズを確認している。
 教室の一番後ろに立ち、子供達の様子にレンズを向けた野島が、ふと佐穂を見遣る。
 佐穂が何事だろうかと見つめれば、野島はレンズから少し顔を上げて、佐穂に向かってOKのサインを指で作った。
 おそらくは、良い写真が撮れそうだという意味なのだろう。佐穂が軽く頷けば、「パシャリ」というカメラのシャッター音。その音を聞きつけて一斉に振り返った子供達の勢いに、思わず佐穂は満面の笑みを浮かべた。
 
 その瞬間、またひとつパシャリという音が聞こえた。
 


 

 

[09年 08月 19日]

inserted by FC2 system