(3)

「へえ……」
 子供達の真剣な様子を見た野島が最初に漏らした声は、感心したとも取れる嘆息だった。
 教室のホワイトボードに向かい、数列の長机が置いてある。ひとつの机に二人が座るようにして、教室に集まった十人と少しの子供達は、各々真剣な面持ちでそろばんに向かっていた。
  そこにあるのは、恐らく彼が想像していたような「お稽古」の顔では無い。もちろん通常の時であれば、ふざけあったり、そろばん以外の話題で盛り上がること も少なくない。しかし今は「珠算競技会」と呼ばれるものの練習中で、教室代表としてその大会に出るという事は、子供達に取っても大変名誉で嬉しいものらし いと佐穂は野島に説明した。
 その声を聞きつけたのだろう。何人かの生徒が目を止めて佐穂達を見上げる。一応説明はしておかねばならないだろうと、佐穂も野島を席の前に案内した。
「みんな、ちょっとだけ手を休めて聞いて頂戴」
 声を掛けると、そろばんの音が一時止む。顔を上げた子供達は、興味深げに野島と佐穂を交互に見遣る。何か勘違いをしたのだろう。嬉しそうに頬を染めて、隣の子供と話し始めた女の子達もいる。
「こちらは、新聞記者の野島さんです。今日はね、みんなの勉強している姿を見学したいそうなので、みんなしっかり練習してね」
 佐穂の言葉に、教室がざわめく。『すげー』『新聞記者だって。格好良い』。
 子供達の興奮はなかなか冷め遣らず、当の野島本人が苦笑している。
「先生――。どこの新聞?」
 大きな五年生の男の子が手を挙げる。この教室一番の賑やかな子供で、本当はそろばんよりも少年野球のほうに興味があるらしい。
「『週間マイタウン』です。みんなの家にもあるよね」
 佐穂に変わり野島がそう告げると、『家も取ってるよ―』と、あちこちで声が上がった。無料配布のタウン誌なのだから、どこの家庭にもあって当然なのだが、もちろん子供達の知る所では無いのだろう。
「じゃあ私達、それに載るんですか?」
 六年生の彼女は、やはりしっかり者だ。慌てて結い上げられた髪を整えながら、野島に質問する。
「ええ。そうなんだけど。みんなの後ろからとか、そろばんをする手をカメラで撮りたいそうなので、あんまり緊張しなくて良いわよ」
 『えー』『つまんない』途端に子供達から不満そうな声が上がる。
  しかし、こういう時代だ。今日は各家庭に、取材があると事前の連絡をした訳では無い。自分の子供が知らない間に地域のタウン誌などに載っては困る、と考える親もいるだろう。肖像権などと煩いことまでは言わないだろうが、やはりこういう事は神経質になっておくほうが良い。それは、自身の経験にも照らし合わせ た、佐穂の方針だった。
「じゃあ、みんなは練習に戻ってね。ちょっと記者さんとお話していますから」
 野島を一番後ろの席に案内すると、暫くは不満げな顔をしていた子供達も、ひとりふたりとそろばんに向かい始めた。それでも何人かの生徒が、数分おきに野島を振り返るのを見て、仕方の無いことだろうと黙認する事にした。
「競技会、というのはなんですか?」
  早速そろばんを机の上に置いた野島が、己の手帳を手に尋ねる。野島の生命線とも言うべき黒の手帳は、よく使い込まれているらしく、所々が擦り切れていた。 中のダイアリーさえ交換すれば、何年でも使えるタイプなのだろう。それでも大事に使っている様子に、僅かに目を細める。
「この地域のそろばん塾に通っているお子さん達が集まって、年に一回、大会があるんです」
「そろばんの、ですか?」
「ええ。暗算の部もありますが、うちの教室ではそちらは参加していません」
 単に暗算に挑戦している子供が少ないだけなのだが、いつかはそちらも参加しなければならないだろう。そう思うと、心なしか佐穂の気分は暗くなる。
「基本的な事をお尋ねするようですが、大会の種目というのは、どんなものがあるのですか?」
「今回は、見取り算、かけ算、わり算の三種目の総合点で順位が決まります。大きな競技会になると、種目も増えるんですが、今回は地元だけですから」
 ふむふむ、と何やらメモしていた野島が、困ったような顔をする。何事かと見つめる佐穂に向かって、申し訳なさそうな顔をすると、さも聞きにくそうに口を開いた。
「あの……”みとり算”とはなんでしょうか?」
「ああ、単純な足し算と引き算のことですよ」
 そろばんをやる人間に取っては初歩中の初歩だが、日頃そろばんと馴染みのない人間にとってはそんなものだろうと思う。佐穂は立ち上がると、教室の机に置かれた練習用の小冊子を持ってきた。
「そしてこれが、”伝票算”と言います。今回の競技会にもありませんが、数年前までは、級取得の際にこの科目も必須だったのです」
「へえ……会社の経理みたいだあ」
 野島が漏らした素直な感想に、佐穂は微笑みながら頷いた。
「今だったら、計算機やパソコンで十分ですけれど」
「そんな事、そろばん塾の先生が言って良いんですか?」
 些か真実味の篭った声になったのだろう。野島が慌てたように、聞き返す。その仕草が、また実直な人間らしい。佐穂は思わず、声を上げて笑ってしまった。
「え……先生?」
 野島は暫く、笑いの止まらない佐穂を見ていたが、やがてにこりと嬉しそうに笑った。
「良かった」
「はい?」
 何気ない呟きに首を傾げれば、野島はメモを取っていたペンで己の額辺りをつつきながら、照れくさそうに笑う。
「いえ、突然取材の申し込みなどしてしまいましたので、お気を悪くされているのかと心配していました」
「……」
 そう言われては、肯定も出来ない。確かに最初は良い気はしなかったが、今はこの気の優しい新聞記者に、少しでも良い記事を書いてもらおうと思うばかりだ。
 佐穂は少し背筋を伸ばすと、野島の手元にあるそろばんを彼の手元に置いた。
「では、少しやってみましょうか。そのほうが、面白い記事が書けると思いますよ」
「は、はい」
 野島は慌てて手帳を脇に追いやると、男にしては優しく指の細い手で、そろばんを持ち直した。
 日頃パソコンのキーばかりを叩いているだろう手は、案外そろばんに似合っていた。
 


 

 

[09年 08月 18日]

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