(2)

「ごめん下さい」
 聞き慣れぬ男性の声に、きっと郵便か宅急便だろうと考えて、佐穂は玄関に向かった。
 後ろでは、子供たちの弾くそろばんの小気味良い音が続いている。今日は来週に開かれる塾内の選考会のため、おのおのが自習という形で、苦手分野に取り組んでいるのだ。
「はい」
 万一のために印鑑を手にして玄関を伺えば、そこには紺色のスーツを着た青年が立っていた。大きな鞄を提げ、社員証にも見えるものを首からぶら下げている。しかし佐穂が何よりも気になったのは、彼が肩から提げた、大きなカメラだった。
「初めまして。『週間マイタウン』の、野島と申します」
 彼は陽に焼けた童顔を綻ばせ、佐穂に頭を下げた。事態がよく飲み込めない佐穂は、ただ無言で頭を下げるのみだ。
「ええと……」
 そう言ったまま怪訝そうな表情を崩さない佐穂に気付いたのだろう、野島は気まずいように目を伏せると、通常の大きさの半分ほどであろう、新聞を取り出した。
 表紙に”今週の頑張る人”の写真が掲載された、『週間マイタウン』。それは先日、川瀬が捲っていたものだ。
「すみません。今度こちらで、”子供たちの習い事”という特集を組ませて頂きたいと思いまして、今日はその取材に参りました」
 佐穂は、言葉も無く、野島の手元を見つめた。
 その話ならば、先日断ったのではないかという思いと、勝手に話を進めてしまった川瀬への怒りが渦巻く。それを大きな深呼吸で収めると、佐穂は野島に向き直った。
「そのお話でしたら、先日お断りした筈です。それに、ウチで無くとも、沢山の塾がおありでしょうから……」
 ようよう断りの言葉を紡ぐと、野島は”聞いている”というかのように、大きく頷いた。
「はい。そのお話は、川瀬様のほうからお聞きしています」
 それなのに、わざわざここまで来たのだろうか。佐穂は、あまりの野島の図々しさに呆れる思いだった。人の良さそうな顔をした青年だけれど、結局マスコミに席を置く人間とは皆このようなものかと、半ば蔑むような気持ちが拭えない。
「でしたら……」
 『お引取り下さい』と続けようとした佐穂を遮るように、野島が身を乗り出した。
「いえ、ですので、”取材”という形で無くとも構いません。”体験入学”という形で、今日は一日お世話にならせて下さい。もちろん、正面からの写真は撮りません。子供達の手元だけでも一枚頂ければ、充分です」
「……体験入学?」
 いきなり野島から出てきた突拍子も無い言葉に、佐穂は少々面食らった。という事は、この佐穂といくつも歳が変わらないだろう青年が、小学生の子供達に混じって、パチパチやろうというのだろうか?
 ……佐穂は眩暈がするような頭を抱えながら、野島を見る。しかし野島は、至って真剣、と言った面持ちで、佐穂の顔を見つめている。
「ほら、この通り。自前のそろばんも用意して来ましたから!」
 そう言って野島が鞄から取り出したのは、なるほど新品のそろばんだった。
 どうやって手に入れたものかは知らないが、その為に大きな鞄を持ってきたのだろう。現代文明の象徴のようなパソコンと、どこかノスタルジックなそろばんが同時に収められている鞄を見て、佐穂は少しおかしくなった。
 どうしようか、とも思う。
 ”体験入学”ならば、いつも新人の子供達に教えるよう接すれば良いし、写真も撮らないのであれば佐穂自身には問題は無い。タウン誌とは言え、新聞に載る事はもちろん教室の宣伝にもなるだろうから、オーナーである川瀬に少しでも恩返しが出来るだろう。
  何より、ここまで低姿勢で、しかも今後は使わないであろう”そろばん”まで用意してきた野島に、佐穂は好感を覚えていた。予備のそろばんならば、教室にも いくつか用意してあるだろう事は予想内の筈。しかしそれを借りるという選択をしたなかった彼は、仕事熱心という以上に真面目な人間なのだろう。
「……解りました。今日は丁度、自習日なんです。いつもほど、忙しくはありませんから」
 言ってスリッパを用意してやれば、野島の顔が見る見る輝いた。
「ありがとうございます!」
 笑うとえくぼが出来る。
 それは彼の童顔を、一層若々しいものに見せて、一瞬佐穂は彼の笑顔に目を奪われた。
「どうぞ」
 内心の動揺を隠すように努めてそっけなく言うと、野島が慌てて靴を脱ぐ。古い板張りの廊下が、彼の体重を受けて、軽く軋む。
 佐穂の任された塾は、以前川瀬が住んでいた古い日本家屋だ。
 腰を痛めた恩師は、それ以来段差の多い家を嫌い、夫と二人で近くに小さな平屋の家を建てていた。随分と余裕のある事だとは思ったが、子供達も独立して遠くに住む川瀬に言わせれば、若い者のいない古い家は防犯上怖いのだそうだ。
 今は教室の日にしか開けられないこの家の玄関は、古い邸宅らしく門構えだって相当なものだし、子供達が好んで遊んでいく庭には、立派な松が植えられている。
 四季折々に咲く花は、川瀬の趣味で、今でもその手入れにはまめに訪れているらしい。
 今は撫子が可憐な姿を見せていて、佐穂もずいぶんと心を慰められている。
 そんな庭をも興味深そうに眺めながら、野島は佐穂に続いて、畳の教室に足を踏み入れた。
 


 

 

[09年 08月 17日]

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