(1)

 パチ、パチ、と規則正しい音。
 小粒の珠が触れ合う特有の優しい音がして、教室の前にも初夏特有の風が吹き抜けていく。
「先生、出来ました」
 そう言って、背の低い男の子が佐穂の前に答案を持ってきた。数学が大の得意だというこの男の子は、教室に入ってわずか一ヶ月ながら、既に級を取ろうかという腕前に成長した。
「はい。よく出来たわね。満点よ」
「やったあ」
「じゃあ、今日はこれでおしまい。来週また、火曜日にね」
 はあい。という子供らしい高い声の返事を返して、彼は通学カバンをひっかけた。今時の男の子らしく、カバンもちょっと洒落た目の覚めるような青のデザインだ。そんな”今時”のカバンから、彼が使ったばかりの「そろばん」が覗いている事に、ちょっと佐穂は笑った。
 『珍しいね〜なんて言われるんだ』と、先週彼は笑っていた。確かに今は、学校の授業でそろばんを扱うこともほとんど無くなった。計算機なんて使い勝手の良いものがある現在、何を好き好んでそろばんなんぞを、と思う小学生だって多いのだろう。
 元恩師から受け継いだこのそろばん塾の生徒も、徐々に減り始めている。
 佐穂が子供の頃はそれなりに盛っていて、確か塾も週に2回は開けていたはずだ。
 それが今は、週に1回で事足りる。
『佐穂ちゃん。リハビリがてら、どう?』
 そう声を掛けてくれた元の恩師は、去年の冬に腰を痛めていた。長時間座り続けるのも苦痛のようで、今は退職した元教員の夫と共に、もっぱら隠居の身を通していた。
 佐穂もちょうど田舎に帰ってきた頃で、さてどうするかと思いあぐねていた時だったから、正直恩師の申し出は有難かった。すぐにフルタイムで働きに出る気にはなれなかったし、さりとて全く収入が無いのも親の手前躊躇われた。
 月・水・金の昼間はパソコンスクールの講師で、自分よりも年齢の高い生徒相手に、電源を入れる所からを教える。
 そして火曜日の夕方は、学校帰りの子供達相手に、そろばんの基礎から応用までを見てやる。
 佐穂に取っては、どちらも楽しく貴重な時間だった。
 二進法から十進法の世界へ戻る瞬間、ああ、世の中はまだアナログでも良いのだと安心出来る。
 それは、デジタルの世界から弾き出された佐穂の心を優しく癒してくれた。
「せんせい、今度の地区大会は誰が出るんですか?」
 残っていた生徒も大方そろばんを仕舞うだろうという時間に聞いたのは、小学五年の女の子。この塾ではかなり長いほうで、級も既に2級の腕前だ。
「そうねえ、一度塾内で選考会を開いてからね」
「せんこうかい?」
 細い首を傾げる。母親によるものだろうか。綺麗に結い上げられた栗色の髪が美しい。最近の子供は、どうしてこうも美しいのだろうか。佐穂は、己の時代との差に、ただただ感心するばかりだ。
「そう。塾で誰が一番かを決めてね。その人に出てもらおうと思ってるの」
「私、頑張ります!」
「うん。期待してるね」
 そう言ってやれば、自分の腕に自信のあるだろう彼女は、嬉しそうに微笑み去っていく。自分も確か彼女のように、自分自身の実力が誇らしかった時があった筈だ。それをひどく遠いものに思いながら、佐穂は塾の扉を閉めた。

「取材、ですか」
「ええ。と言っても、地元のタウン誌なのよ。今時の子供達が、どんな塾に通っているのかを特集するんですって」
「それで、ウチにも?」
 些か身構えながら尋ねれば、恩師である川瀬は、相好を崩しながら答えた。
「”今時そろばんなんて珍しいですから、逆に新鮮かもしれませんね”って」
「誰がそんな事を」
「タウン誌の担当の人が」
 失礼にも程がある。”今時珍しい”などと面と向かって言う人間の取材なんて受けるべきだろうか。
 気に入らないという思いが顔に出たのだろうか。川瀬はもともと細い目を更に細くして、佐穂を見遣る。髪を明るい色に染め細いフレームの眼鏡をかけた川瀬は、実際の年齢よりもずっと若く見える。
「でね、当日は佐穂ちゃんに記者さんの相手をお願いしようかと思って」
「……私がですか!」
 優しげに告げられた言葉に、佐穂は目を大きく見開いた。そこには当然断りの意が込められているのを、到底川瀬が気付かぬ筈は無い。しかし川瀬は、それを知らぬと言った振りで、なおも続けた。
「だって、実質この教室を動かしているのは、佐穂ちゃんな訳だし。私は名ばかりの”オーナー”ですから」
 ”オーナー”をわざと気取ったアクセントで発音すると、川瀬は手元の茶を一口飲んだ。
「子供さんだって、私よりも、若くて綺麗な先生が教えてくれてるっていうほうが、興味を惹かれるんじゃ無い?」
「先生……私はもう、三十ですが」
 暗に”若い”を遠慮すれば、いいえ、ときっぱりとした否定が返る。
「佐穂ちゃんは、私が教えていた頃の面影そのままよ。大丈夫。自信を持ちなさい」
 それでは自分は逆に、十二の頃から成長していない事になる。それもなんだか複雑な気持ちで川瀬を見返せば、相手はにこにこと笑うばかりだ。恩師のこういう所に、いつも佐穂は弱いのだった。しかし、ここで引く訳にもいかない。
「でも、でもダメです。私が……極度の上がり症だってこと、ご存知じゃ無いですか」
 そうだ。それこそが、佐穂が最も気にしている事だ。
 もう、小さな頃から、人前に出る事が苦手だった。保育園のお遊戯だって、未だに両親にビデオを封印してくれるよう頼むほどの出来だったし、学校に上がってからも、それはしかり。だからあの時も……。
 思い返そうとして、それが自分の傷を抉るような痛みをもたらすことに自身が気付いたのだろう。佐穂が思い出すより先に、意識が記憶に封をする。
「それ」が映像となって流れるより早く、佐穂は自分の恐怖を振り払うように頭を振った。
「とにかく、ダメです。私なんか、絶対に」
「……そう?」
 川瀬は未だ未練があるようだ。が、佐穂が絶対に首を縦に振らないことは見当が付いたのだろう。『ま、仕方ないか』と言いながら、先週号のタウン誌を開いていた。
 


 

 

[09年 08月 16日]

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