連作短編2

 

(3)

 ただし、照明の落とされた密やかな空間で、大谷と語るような話は無い。
 地上にある定食屋のドアをカラリと開けると、数人のスーツを着た勤め人風の男達がカウンター席に座っていた。
 やはり、タケシとは纏う雰囲気が違う。
 瞬時にそう判断した自分を、理子は恥じた。
 一番奥まった四人がけの席に向かい合って座る。大谷は既に頼む物が決まっているらしく、理子にメニューを開いて寄越した。
「最近、カロリー過多なんでね」
「まさか。編集長はメタボとは無縁じゃ無いですか」
「そうでもない。歳のせいか、肉が付きやすくなった」
 確か大谷は、五十をいくつか過ぎたばかりだ。それでもその肩は壮年の逞しさを失ってはおらず、髪に白いものが混じるものの、いかにも清潔に歳を重ねた男の落ち着きを持っていた。
 大谷がサバの味噌煮定食、理子はしょうが焼き定食を頼んだ。今日も豚、明日も豚では、己のほうがカロリー過多だろうと思う。
「運動とか、されていらっしゃるんですか?」
 自分と同じくらい編集部にいる時間が長い大谷に、無駄とも思える質問を投げる。案の定大谷は、苦笑して見せた。
「ああ。ゴルフくらいかな」
「でも、ゴルフは結構歩きますよね」
「そうだな。しかし最近は打ちっぱなしくらいさ。なかなかコースには出れんよ」
 そう言った後、何故か大谷は気まずいような表情をした。ぴくり、と頬が動くのが見て取れたが、恐らく通常の人間ならば、気付かぬほどの変化だろう。それは、ほとんど会話らしきものをしなくなったタケシ相手に、その表情から心の内を読み取ろう苦心してきた理子の癖のようなものであった。
 何か不味い事を言っただろうか……。と勘ぐれば、大谷は何でも無かったように、歯を見せて笑う。話を逸らすためだろうと見当がついたが、敢えて深くは追求せずに、相手の話に乗る事にした。
「そう言えば、社内のゴルフ大会、副島君は欠席なんだって?」
「はい。申し訳ありません。友人の結婚式と重なってしまって」
「いや、それは気にする事は無い。めでたい事だものな」
 年に一回、理子達の会社では、社主宰のゴルフ大会が催されていた。今年ももうすぐその時期なのだが、生憎理子の十年来の親友がついに結婚する日と重なっていて、先日欠場の返事を総務宛に出したばかりだった。
「ええ。長い友人なので、何か特別なお祝いをしてあげたいんですが……」
 新婦である菜摘から招待状を受け取って以来ずっと悩んでいたのだが、結局良い案も浮かばずにここまで来てしまった。
 一応の肩書きは”敏腕ライター”なのだから、何か気の利いた祝い事のひとつでもやりたいと願ってはいるのだが。
「ふうむ」
 部下の、相談事とも言えぬ程のささやかな悩みに、大谷は本気で悩んでいる。そうすると、太い眉の間に皺が寄り、なんとかいう個性派の俳優を思い出させなくも無い。
 理子の会社は、『クール・ビズ』に賛同して、背広の上着を着ないという取り決めがある。その為、大谷もワイシャツにノーネクタイという出で立ちなのだが、眉間の皺を揉みこむと同時にワイシャツが美しげな波を寄せた。
 見れば、ワイシャツもパリッと糊が利いていて、こんな所にも大谷の妻の気配りが見える。
「ああ、そうだ」
 ひとしきり何かを考え込む風だった大谷が、何かを思いついたように顔を上げる。晴れやかな顔を見ると、明らかに名案が浮かんだのだろうと推測できた。
「家内がね、花の教室に通っているんだ」
「お花、ですか?」
 生け花の類だろうかと首を傾げ尋ね返した時、定員の「お待たせしました」という声が掛かる。注文した定食がテーブルに置かれ、ふたりの会話は一時中断した。
 「ありがとう」と律儀に店員に礼を言いながら、大谷はメニューの脇に置かれた割り箸を二人分持ち上げる。ひとつを理子に手渡しながら、話の続きを始めた。
「ああ、あの”フラワーアレンジメント”というやつだよ」
「なるほど。素敵ですね」
「まあ、それだけじゃ無い。やれダンススクールだ、英会話だ、パソコン教室だと毎日忙しいんだがね」
 ぼやくというでも無く告げて、やれやれと肩を竦める。
 「主婦」という立場にありながら、毎日夫の稼ぎであれこれと趣味を楽しめる大谷の妻を、理子は一瞬羨ましいと思った。しかし主婦は主婦で、あれこれとストレスが溜まるのだろう。それを夫である大谷にぶつけぬよう、大谷の妻は毎日を何かしらの行事で埋めているのかもしれない。

        

 

 

[12年 05月 03日]

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