連作短編2

 

(2)

「なんだ、あいつは」
「今日は金曜日ですから」
 休日出勤はままあるが、基本的に理子の編集部は土、日休みだ。まだまだ忙しく働いている人間も数多くいるけれど、先週校了となったばかりのライター達は、おおむね早く上がっているようだった。
「副島君も、早く上がって良いぞ」
「私は、構いませんよ。とにかく、これを上げてから帰ります」
 早く帰ったって、特にすべき事がある訳じゃ無い。いつタケシから連絡が入るか解らないから、常に携帯を気にして、お酒だって呑めやしない。
 『アンタ、甘やかしすぎよ』
 友人の声が蘇る。確かに、そうなのだろう。理子はいつもタケシの事を最優先にして来た。迎えに来いと言われれば、どんなに夜遅くでも車を飛ばして行ったし、雨が降っていると電話が来れば、傘を持って駆けつけた。
 だからだろうか。長い夜を持て余し、いつしか理子の夜は、雑誌に目を通す事のみに当てられるようになった。一ヶ月の大半をそんな風に過ごしているのだから、理子の読む雑誌の数は相当数に上る。
 後輩の野島などは勘違いしているようだが、決して理子は”デキる”ライターであろうとして雑誌を捲る訳では無い。”ただのつまらない女”だから、雑誌でしか時間を潰せなくなってしまっただけだ。
 ふう、と手元を見て溜息を吐けば、横にあった携帯が目に入る。
 時刻は、夕食の時間を指していた。しかし、特に空腹も覚えていない。それでも何か胃に収めねばならないだろうと見回せば、ちょうどキリがついたらしい大谷がこちらを向いた。
「副島君、夕食はどうする?」
「そうですね〜。コンビニでも行ってきます」
「おいおい。つまらない食事だな」
「今度、コンビニ弁当の特集でも組みますよ」
 財布を探して立ち上がれば、大谷も合わせたように椅子を押しやった。そのまま理子のほうを向いて、余裕のある年代の、男らしい鷹揚な笑みを浮かべた。
「何か、食べたいものでもあるかい? 今日はご馳走するよ」
「え?」
 大谷は愛妻家で有名である。昼食は必ず妻の手作り弁当だし、夜も飲み会や会議で遅くなる時以外は、必ず自宅で摂っているのだと部内の評判だった。
 意外な思いが顔に出たのだろう。大谷はちょっと困ったように笑うと、
「今日、妻は同窓会でね。いないんだ」
 と言い訳のように口にした。
 大柄な大谷は、その歳に似合わずくたびれた所が無い。エネルギッシュというか、常に最前線で取材をしようとする意気込みに溢れていた。
 そんな大谷を慕う編集部員は多い。もちろん厳しい所もあるので有名だが、彼の下で働けば、その後のライターとしての腕は保障されたようなものだというのがもっぱらの噂だった。
「本当に、宜しいんですか?」
「ああ。……恥ずかしい話だが、私はこの歳でひとりで飯を食うのが苦手でね」
 普段いかつい顔をしたそんな大谷の可愛らしい一面に、理子はそっと笑った。『ご馳走になります』と頭を下げて、まだ残る部員に声を掛け外へ出た。
 宵闇が迫る表通りは、夏特有の甘い匂いがする。
 こういう夜に、恋人で無い男と歩くのは危険だと、理子は知っている。しかし大谷であれば、そう問題はあるまい。
「ドナウ亭で良いかな。いや、たまには違う場所に行くかい?」
 理子がドナウ亭でよく昼食を摂っているのを知っているのだろう。気遣うように大谷が問う。しかし、編集部から歩いていける範囲には他に適当な店も無かったし、何より理子は会社からあまり離れられない。社の地下に、車が置いてある。携帯が鳴れば、すぐさまタケシの元へ駆けつけなければならないのだから。
「ドナウ亭で結構です」
 『かつ丼は、勘弁して欲しいですが』。本音は心の内だけで呟いて、理子は大谷に続いてドナウ亭に向かった。
「上で良いかな?」
「はい」
 地上に通常の定食屋があるこの”ドナウ亭”は、地下に軽めの喫茶店が作られている。
 しかし地下の店でも通常の定食を頼む事が出来るため、結局はどうして店が分けられているのかは良く解らない。ただ、地下のドナウ亭で流れる曲はジャズが圧倒的に多く、地上の店では有線を引いている。その辺が店主の拘りなのだろう。
        

 

 

[12年 04月 30日]

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