(11)

 アパートを飛び出し、階段を駆け下りる。
 かつて無いほどの速さで、夜の公道を走った。道行く人が、スカートを翻し泣きながら走る栞を振り返って行ったけれど、栞に取っては気にもならなかった。教えられた通り、表通りでタクシーを拾う。えぐえぐと泣く栞に驚くそぶりは見せたものの、運転手はマニュアルに沿って扉を開け、行き先を尋ねた。
 白い後部座席にぐったりと体を沈め、栞は声を殺して泣いた。ひどく切なかった。苦しかった。
 解ったのは、自分が本当に馬鹿だったこと。そして、さびしい人間だったということ。……きっとそれは、省吾とても同じだったのだろう。
 婚約者に、無視にも似た扱いを受けたあの時。自分の居場所がどこにも無いような気がして、ネットに安住の地を見つけようとした。綺麗なものばかりを追い求めて、ちっとも現実を見ようとしなかった。己の作り上げた理想に縋って、結局現実を捨ててしまった自分達。
 「現実」より他に「生きる場所」なんて無いのに。

 誰かに助けを求めたくて、何週間かぶりに、携帯を開く。そこには留守電を示すマークがついていた。慌ててメッセージを再生すれば、何件か入っている。涙声の両親、切羽詰った婚約者の声も聞こえる。そして恐らく今、一番話を聞いて欲しい友人達からの電話もあった。
『ちょっと、栞? どこにいるの。みんな心配してるんだからね。早く帰ってきなよ。とにかく電話してね!』
 ごめん、ユイ。心配性のユイだから、きっとおろおろしっぱなしに違いない。
『栞。長い間どこかに行くんなら、連絡くらいして行きなさい。びっくりするじゃない。夏休み、あと1ヶ月もないし、帰っておいで。単位危ないんでしょ?』
 やっぱり亜佐美は、いつも冷静。仰る通りで返す言葉もない。ホントの事を話したら、ひどく怒られるんだろう。
『栞ちゃん? 奈々子です。えーと、無事でいるかな? みんな心配してるよ。何かあったのかなあ。話してくれれば良かったのに。とにかく、待ってます』
 「無事でいるかな」って本人に聞く辺りが奈々子だよね……。無事じゃなかったら、どうすんの。
 意識しないまま、苦笑が漏れてしまう。電話の中の友人達は、あまりにもいつもの友人達だった。
 そこには、栞の「日常」がある。
 あの時、ネットの中に救いと癒しを求めたのは、仕方がないことだと思う。自分にだって、歳相応の見栄と意地がある。幸せそうに見える友人達に、不幸な姿を曝け出すことなんて出来ない。それでも。

『楽なほうばっかりに逃げてると、自分みたいになっちゃいます』

 省吾の言葉が、頭をリフレインする。
 野田と話し合うこともせず。現実と向き合うことを面倒だと思った栞。
 しかしそれは、所詮「逃げ」でしかないのだと、省吾は言った。そしてそれは、正しい。
 日常にはきっと、苦しくて遣り切れなくてどうにもならない事が溢れている。でもそれが「生きていく」上で、当然なのだ。自分はひとつ賢くなった。それだけでも、あの兄弟に出会えた意味があるだろうか。
 ――その前に、取り合えず皆に、一通り怒られよう。
 あんまり気が進まないけれど、今は友人達の小言でさえも、懐かしい。
 車窓から見える景色は、二度と目にしないであろう、都会のそれ。鞄からコインロッカーのキーを取り出すと、しっかりと握り締める。帰るのだ、自分の日常に。
 たびたびこういう出来事があったからこそ、荷物をコインロッカーに置いておくよう、優人は言ったのだろう。”ペッパー”に夢を見た少女達は、再び現実に帰る。

 その道標であるかのように、いつか通り抜けた駅の改札が、フロントガラスの向こうに見えてきていた。



(栞編 了)  


 

 

[09年 11月 22日]

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