(10)

「うん。何度もね。女の子達は勝手にアイツの事をアレコレ妄想する。そして、妄想の中のアイツに恋をするんだ。でも、現実のアイツは奥手で、直に女の子達と会っちゃうと、まともに話も出来ない。まあ、外見コンプレックスのせいなんだけどさ」
 それは、なんとなく気付いていた。省吾が自分の容姿をひどく気にしていること。そのせいで、人とまともに視線が合わせられないこと。隠れるように、ひっそりと生きているということ。そしてそんな省吾に、昨夜自分は何を言ってしまったのか。
 自分とて、優人達と大差ない。
 自分ばかりが可愛くて、他人が傷つこうがどう感じようが、全く気にしない。
 婚約者に憤ったからと言って、彼に不満をぶつける訳でもなく、ただただ自分の楽なほうへ逃げ出した。結果、相手を傷つけ、苦しめているのだろう。しかしそんな野田の心中には今の今まで思いもよらなかった。――自分が誰かに傷つけられる、まで。
 栞も優人も、省吾も。
 己の世界だけが絶対で、その為に何もかも切り捨ててしまえる。ちっとも大人じゃない。子供の我侭だけで成り立っている、小さなこの部屋。
「だから、女の子達の夢を壊さないように、俺が”ペッパーさん”として、出て行くの。そしてアイツは、俺と女の子達のセックスを、隣の部屋で息を殺すように聞いてる」
「そんな……」
「まあ、最後にはバレちゃうんだけどさ。こんな風にね」
 優人は、大げさなほど、肩をすくめて見せた。罪悪感も反省のかけらも見られないその態度に、栞は瞬時に怒りが湧いた。そのまま右手を振り上げると、優人の頬に、思い切り叩きつける。優人の体が、ぐらりと揺れた。
「なんて酷い事すんの?! そりゃあ、アタシ達みんな馬鹿かもしれないけど、やっていい事と悪い事があるでしょ。確かに、妄想の”ペッパーさん”が好きだったのは否定しないけど、みんな、彼の言葉ひとつひとつに救われた人ばっかりなんだから!」
「顔の見えない相手になんか、いくらだって優しく出来るさ。そんなのホントの優しさじゃない」
「それでも! 彼に慰められた人達が、たくさん居る。彼に感謝した人達がいっぱい居るんだから! アナタには、省吾さんを馬鹿にする資格なんて無い」
 殴られた頬に手を当てた相手が、一瞬目に強い怒りをみなぎらせた。殴られるー。解ってはいたが、言葉は止まらなかった。
「何が『夢を壊さないように』よ。結局嘘をついて、その人達を騙しただけじゃない。良いことをしたような事を言わないで。最低!」
 優人の右腕が振り上げられる。
 栞は、打たれる痛みを想像して強く目をつぶった。しかしいくら待っても、一向に衝撃は落ちてこない。
 震えは止まらなかったが、無理矢理目を見開く。驚いた事に、そこには、優人の右腕を掴んで離さない、省吾の姿があった。
「ごめん。別所さん。行って、早く」
「てめえ、省吾。離せ!」
「早く。コインロッカーのキーも、忘れないで」
 体格で負けている分、優人は省吾に叶わないのだろう。それでも力は拮抗しているらしい。二人の腕に、筋が浮き出るのが見える。
 額に汗を垂らした省吾は、必死の形相で、栞に言い募った。
「急いで! コンビニの向こう、真っ直ぐ走って。表通りまで出れば、タクシーを拾えるから!」
「でも、省吾さん!」
 ふたりの形勢が逆転した。今は優人が省吾の上に馬乗りになっている。
 しかし押さえつけられた形の省吾は、下から必死に優人の腕を掴んで離さない。優人が省吾のだぶついた腹の辺りに蹴りを入れるのが見えた。ぐえっと、省吾が呻く。
 後ろの激しい物音に耳と心臓を叩かれながら、栞は必死に自分の荷物を探った。
 ここに来た日、持って来たのは小さなバッグひとつ。コインロッカーのキーは、その中に入れっぱなしの筈だ。手に持って、玄関に向かう。ミュールに足を入れかけて、それでも栞は省吾の身が気にかかった。
「省吾さん!」
「大丈夫だから。早く! 別所さん、ありがとう。さよなら!!」
 ぶわっと涙が流れ出してきた。
 何に対して礼を言われたのか、まったく解らない。でも、もう二度と”ペッパーさん”は現れないだろうと、混乱した頭の中、薄っすらと感じた。

 


 

 

[09年 11月 21日]

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