(1)

 夢のない男なんて、つまらない。
 亜佐美はずっとそう思ってきた。

『彼のためを思うなら、別れて。アナタはあのひとにふさわしくないわ』
『そんな……私』
『アナタの存在が、どんなに彼の重荷になっているか解ってるの? あのひとは優しいから、アナタを傷つけられないのよ』

「カット、カーット!」
 メガホンを叩きながら、監督兼プロデューサーの越野が叫ぶ。
「桐原〜。ちょっと違うんだよね〜」
 亜佐美に向かうその顔は、若手芸人がコント等で演じるプロデューサー”らしく”は、ある。黒髪、メガネにスラックスの出で立ちは、充分にその辺りを意識しているのだろう。
「ここでの君はさ、自分で己の立場を疑う、最初の場面なんだ。自分が恋人に一番相応しい筈だ。でももしかしたら、そうで無いかもしれない。ライバルである彼女のほうが彼に愛されているのかもしれないって、段々思い始めてる。でもそうじゃないと、必死で自分に言い聞かせようとしてるんだ」
 そんな筈は無い。
 この女性は躊躇ったりしない。彼に対する自分の愛情に、絶対の自信がある。
「だからさ〜、そんな自信たっぷりにしゃべっちゃ駄目でしょ。もうちょっと、こうなんて言うかさ、女性らしい躊躇いを入れてくれないとさ」
 日頃から饒舌な教育学部の越野は、亜佐美に対しても言い聞かせる教師のような雰囲気で話している。それが亜佐美のように確固たる「自分」を持つ女性に対して、どんなに侮辱的な行為かも解らずに。
 越野の後ろで脚本を眺める菅(すが)が、つと足を組み交える。
 後ろで無造作にまとめた彼の長髪が、僅かに揺れる。しかし亜佐美は知っているのだ。無造作を装いながら、それがどれだけ計算されたものなのか。
 そう、自分ほど彼の事を理解している人間はいない。だからこそ、自分の存在を不安に思う筈が無い。たとえ彼の向こうに、もうひとりの女の影が見え隠れしても。
「あ〜、じゃあ、少し休憩取ろうか。おい誰か、コーヒー買ってきて!」
 無言を押し通す亜佐美に疲れたのか、越野が回りにいる映研のスタッフに指示を出す。手を挙げたのはひとつ後輩の監督助手で、いわゆる「なんでも屋」だ。亜佐美達”女優”陣の世話から、大学の教務部との交渉まで。
 監督助手を経た男達が、やがてメガホンを取る立場になっていく。
「私、ココアがいいな」
 飴玉のような声で柔らかく呼び止めたのは、新作映画の「準主人公」。
 亜佐美と一人の男性を挟んで火花を散らし合う、井出樹里(じゅり)。家政学科に籍を置く彼女は、学内でも評判の美人だ。おっとりとしていて、可憐。およそ亜佐美と対象的な彼女は、将来は教職を目指しているのだという。
「は、はい。井出さん!」
 直立不動で敬礼を返して、後輩が走っていく。
 私の希望は無視なの、と一瞬鼻気色ばんだ亜佐美だったが、いつもブラックコーヒーを好む彼女である。相手もそれほど気にしなかったのだろう。
 


 

 

[09年 11月 26日]

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