(6)

 奈々子の父は、かつて売れない俳優だった。
 いくつかの映画やドラマに顔を出していたものの、「大部屋俳優」のひとりである事は間違いなく、収入の無い時代には、母がいくつもの仕事を掛け持ちして父を支えていた。
 しかし、ある有名なひとりの映画監督が、父を見出した。
 その当時30も半ばだった父は、20代のアクの強さが抜け、深みある熟成した男性になろうとしていた矢先だった。誰もが認める通り父は美男であったが、そのせいで若い頃は上辺だけの演技が身についてしまっていたのだろう。しかし下積みを幾年も過ごす内、徐々に父が本来持っていた、役者としての才能が目覚めたようだった。
 それを引き出したのは、腐る彼を見捨てることなく支え続けた、母の力だったように思う。
『これで、お前や奈々子に楽をさせてやれるな』
 そう言って誇らしげに微笑んだ父を、未だ覚えている。しかしそれに対して、母は曖昧な笑みを浮かべただけだった。せっかく苦労から開放されるのだから、もっと喜んだら良いのに――そう言ったのは、忙しい母の変わりに奈々子達の面倒を見てくれていた、母方の祖母だ。
 朝早くから夜遅くまで身を粉にして働く母に代わり、生活全般は祖母が取り仕切っていた。
 娘の選んだ相手に不満もあったろうが、好きで好きで一緒になったふたりだと言うし、仕方ないと諦めていた所もあるだろう。
『あ、お父さんだよ。お母さん、お父さん、こんなにテレビに出てるよ』
 はしゃぐ自分を横目で見ながら、母が乾いた目を画面に向けたのを覚えている。どこか尋常でない母の様子に気付いてはいたが、最近では父が家にいない事が増えたせいだろうと思っていた。父はその頃、忙しさを理由に家に戻らないことが多くなっていた。
 しかし奈々子は、とにかく父の映るドラマが大好きだった。いくら「寝なさい」と祖母に言われても、その日ばかりは頑として布団に入らなかった。
『奈々子ちゃんのお父さん、格好良いね』
『えへへ』
 学校でも、奈々子の父は有名人になった。今まで冷ややかな目で見ていた近所の住人も、急に笑みを浮かべて挨拶するようになってきた。奈々子は嬉しかった。そう、あの日までは。
『……ななちゃん』
 珍しく、母が早い時間に家に居た。
『ただいま。お母さん?』
『お帰り。奈々子』
 居間には、祖母も居た。ふたりの間に重い沈黙が漂っているのを、小学生の奈々子も敏感に感じ取った。何か、良くないことが起きている。その予感がじわりと奈々子の背筋を這い登る。
 ふとテーブルの上を見ると、白い紙が置いてあった。覗き込もうとする奈々子を阻むように、母が手を伸ばし、紙を隠そうとする。しかし、それを止めたのは、祖母だった。
『これで、終(し)まいね。……のし付けて、おやりんさい』
 それまで下を向いていた母が、祖母の目をじっと見た。
 おとなしいばかりだと思っていた母が、ひとときだけ見せた、燃えるような目だった。
 しかしその中にある炎は次第に静まっていき、やがて涙の盛り上がりがいくつもいくつも見えるようになった。母はハンカチで目頭を押さえると、声を殺して泣いていた。
 ぽかんと、訳が解らないまま立ち尽くす奈々子の前で、祖母は優しく母の肩を撫で続けた。
 そしてその日から、父は家に帰っては来なくなった――。

「私達、結局お父さんに捨てられちゃったんだよ」
「相手の、人は……?」
 テーブルの上にあったのが「離婚届」だったのだと、今ならば解る。それに、父の名だけが記されて居ただろうことも。
「その時、共演してた女優さんだって。今も、たまに出てるよ」
 ”糟糠の妻を捨てた人気俳優”。
 当時は、ワイドショー等でもかなり騒がれたものだ。
 売り出し中だった父にとっては、痛いスキャンダルではあったろう。その後は舞台での活動が中心となり、テレビや映画と言った媒体では、ほとんど見なくなった。しかしそれだけのリスクを負ったとして、相手の女優と共に生きていきたかったのだろうか。
 それ以降、奈々子自身も父に会ったことはない。
 


 

 

[09年 12月 05日]

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