(7)

「大変だったんだねえ。ヒメ」
 しみじみ、と言った口調でユイが同情を示す。そうでもないよ、と返しながら、遠い日々を思い返した。
 特別仲が悪かった訳ではない両親。
 確かに母はそれほど綺麗な女(ひと)だった訳ではないが、父のためだけを思い、懸命に働いた筈だ。しかし父は、そんな母の思いを切り捨てた。冷酷に。自分の思うままに。
「なんかね、お母さんみたいになりたくないって、思っちゃうんだ」
「ヒメ……」
 ユイの目が、困惑を滲ませる。
 元々、あまり人を責めることをしない奈々子だ。それが真っ向から母を否定しているのだから、戸惑うのも無理はないだろう。しかし昔から奈々子は、この世で母がもっとも遠い人物のように思っていた。
「無理をしている訳じゃないんだよ。でも私はね、誰も好きになれないんじゃないかなってぼんやり思ってる」
「そんなこと、ないと思うけど」
 栞や亜佐美のような生き方は、自分には出来ないだろう。誰かを深く愛することも、誰かの為に進んで傷つくことも自分には出来ない。その善悪はさておき、自分の中にはそれほどの情熱は眠っていない。
 ユイも、それ以上の言葉は続かないようだった。無理もない。その時の奈々子の表情は、全てを諦めたような、そして何も望んですらいないものだったのだから。

「”ミス・キャンパス”、ですか?」
 目の前で頭を下げる学生達に、奈々子は言葉を失う。
 授業からの帰り、講義棟を出た所で、数人に声を掛けられた。「学園祭の実行委員ですが」と名乗ったスタッフジャンパーの面々は、男性がふたりと、女性がひとり。しかし話すのはもっぱら女子学生で、男子生徒は顔を赤らめたまま、うつむいている。
「ええ、そうなの。毎年全ての学部で予備選考を兼ねてアンケートを取るのだけど、文学部では長谷部さんがダントツの1位なのよ」
「でも……」
 来月の末に控えた学祭で、”ミス・キャンパス”のコンテストが行われるのは奈々子も知っている。毎年学祭自体に興味はないのだが、亜佐美の所属する映画研究会の試写会にだけは、必ず出るようにしていた。しかしそれ以外の行事は自分に関係ないことと、ほとんど自宅で読書や余暇に費やすのが奈々子の恒例だった。
「正直、私達も長谷部さんがグランプリ候補だと思っているから、ぜひ当日のイベントにも参加して欲しいんだ」
 女子生徒の言葉を受けて、後ろに居た男子生徒までもが力強く頷いている。
 正直、ミスコンなどのようなものには一切興味はない。しかも”ミス・キャンパス”などというイベントは、同好会や研究会と言った各団体が、それぞれ身内の女子生徒を参加させるものだろうと考えていた。
 今の所どの団体にも属さない奈々子は、そのイベントに出ること事態が場違いであるような気がする。
 「申し訳ありませんが……」と断ろうとして、後ろから伸びてきた手に遮られた。
「あら、いいわね。奈々子。ぜひ出場してよ」
「……亜佐美ちゃん?」
 後ろから奈々子の手を握り締めるようにして振り回すのは、同じく授業が終わったらしい亜佐美だった。亜佐美は突然の登場に驚く学祭スタッフ達に向け、にっこりと微笑む。
「彼女は、私がなんとか説得しておきますから。今日の所は失礼しますね」
「あ、待っ……」
 後ろからの声も気に留めず、亜佐美はずんずん歩き出した。奈々子は引きずられるように付いていきながら、亜佐美に問いかける。
「亜佐美ちゃん、どうして?」
 ある程度離れた場所まで来ると、亜佐美はふう、と息をついた。そのまま振り返り、パン、と手を合わせる。
「ごめん。奈々子。どうかこの通り!」
「どうしたの?」
「彼女を倒して!」
「彼女って……」
 面喰らう奈々子に亜佐美が話したことによると、今年のミス・キャンパスには、映画研究会代表として樹里が参加するのだという。奈々子と同様キャンパス内の有名人である樹里だから、声が掛かっても別段不思議ではない。
 しかし、と亜佐美は熱弁する。
「ぜーったい、奈々子のほうが美人だから!」
 


 

 

[09年 12月 05日]

inserted by FC2 system