(9)

 次回作の構想を練っていると、少し前に聞いていた。今パソコンの中には、相当数の文字列が並んでいる。まだ構想の段階だろうが、彼が新作に向かうスパンとしては、少々短い。以前は新作と新作の間に、少なくとも2ヶ月は空けていた筈だ。今回は、『ちょうちょ』の脚本から、まだ一ヶ月ほどしか経っていない。
「すごいですね。もう、新作ですか?」
 コーヒーに口をつけ、満足そうに唇を上げた菅が、ちらりと亜佐美に視線を流す。パソコンの画面を確かめてから、ゆるく頷いた。
「引き出しが多いってとこを、見せたほうが良いだろうから」
「あ……公募、ですか」
 菅は、亜佐美が既に知っていることには驚かなかった。情報の出所が、簡単に推測出来たためだろう。
「受賞した後、直ぐにでも次回作を、なんて話になったら困るだろう。ストックは多いほうが、何かと便利だ」
「そうですね」
 新人賞を獲ったばかりの脚本家に、次回作の依頼などそんなに来るものだろうか。しかしそういう方面に関して全く素人の亜佐美には、なんとも言えない。
 画面を見つめる菅の横顔は、真剣そのものだ。
「まだプロットの段階なんだが。次は、最高の出来になりそうな気がする」
「凄いです。書きあがったら”一番”に見せてくださいね」
「解った」
 ”一番”を殊更強調したことに、気付かれただろうか。
 しかし今度は、負けたくない。いや、これからもずっと、樹里だけには負けたくない。
 不毛な戦いをしている自覚はある。当人である菅に順位を付ける気がないのだから、いたずらに亜佐美と樹里が争っても、虚しいだけだ。ただ、亜佐美の中にも当然としてある”女としてのプライド”が、樹里に負けることをよしとしないのだった。
 パソコンを叩き続ける菅の細い指先を見つめている内に、なんだか眠気が襲ってきた。菅が昼間指摘したように、確かに少し疲れているのかもしれない。ずるずる、とソファに頭をもたせかける亜佐美を見かねたのか、パソコンを見つめる視線はそのままに菅が呟いた。
「桐原。眠いんなら、寝ても良いぞ」
「はい。でも……」
「暫くかかる。明日も撮影だろう。早く休め」
「ありがとうございます」
 全身が錘(おもり)のように、だるい。この調子では、今日菅とベッドを共にすることは出来ないだろう。くらくらと回る視界を自覚して、亜佐美はよろよろと立ち上がった。
「すみません。先に休ませてもらいます」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
 就寝のキスも、振り返ってもらうことすら望めぬままに、亜佐美は重い体をひきずってベッドに入った。明日までには治るだろうか。明日は撮影もあるし、英会話もある。このスクールは高い授業料を払っているのだ。滅多な事では、休みたくない。
 そう思う端から視界は暗くなって、結局その夜、亜佐美は一度も目が醒めることもないままに眠り続けた。

 翌朝、目覚めは最悪だった。
 とにかく頭が重く、枕から上げるのですら苦痛を伴う。視界はぐるぐる回るし、何より喉の痛みが尋常ではない。
 菅は……と姿を探せば、部屋の中はどこも静まり返っている。トイレにでも行ったかと思い暫し待ってみたが、結局彼の姿はどこにも無かった。亜佐美は呆然とする。
 彼は、帰ってしまったのだ。亜佐美の寝ている間に。
 もしかしたら、様子のおかしい自分を気遣って、朝まで待っていてくれるかも……。そんな淡い期待を持っていた自分を、亜佐美は詰った。そうだ。彼はそんな性格ではない。それを承知で好きになったのだから、誰も責めることは出来ないし、泣き言も言えない。
 それでも亜佐美の心を吹き抜けるのは、冷たい風だった。
  


 

 

[09年 11月 27日]

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