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一言、書置きのようなものを残してくれても良いのに。そんな感傷が胸を掠めたが、ふいに全身を襲った言いようの無い脱力感に、亜佐美はその場に膝をついていた。これほど寂しいと感じたのは、菅と出会って初めてかもしれない。
 人間、病気の時は弱くなるものだ……。
 そう結論付けて、携帯を探す。相手を誰にしようか一瞬悩んで、監督の越野を選んだ。菅に電話して、自己管理の出来ない人間だと思われたくなかったからだ。こんな扱いをされながらも彼に気を遣ってしまう自分に、亜佐美は苦笑した。
「……桐原? もう撮影始まるぞ」
 幾分不機嫌な響きを滲ませた越野は、「もしもし」というしゃがれた亜佐美の声を聞いた瞬間、絶句した。
「おい。大丈夫かよ?」
「う、ん。ごめん。喉が、痛くて」
「だろうな。まるでニューハーフだ」
 基本的に、思ったことを素直に口に出す男だ。悪気が無いと言えば聞こえは良いが、単に思慮が足りないせいだろうと亜佐美はぼんやり思う。
「悪いけど、撮影」
「ああ。延期だな。それじゃあさすがに無理だろ」
「ごめん、ね」
「仕方ねえよ。暫くは、鹿島班の撮影に入るわ」
 映画研究同好会には、ふたりの監督が居る。
 ひとりが部長も勤める越野で、もうひとりが副部長である鹿島だ。日程の関係で越野班の映画を先に撮影していたのだが、このアクシデントで、順番を入れ替えるのだろう。
「迷惑かけちゃって」
「まあいいさ。ウチは後少しでクランクアップだからな。早く治せよ」
 最後のひと言に労りが見えたのは、亜佐美にとって幸いだった。このまま越野にまで冷たい態度を取られていたら、自分はどうなっていたか解らない。
 どっと、疲れが出た。とにかく休みたい。そんな気持ちのまま、ベッドに潜り込む。悲しみに浸る間もなく、眠りが訪れた。
 次に目が覚めたのは、意識の奥に薄っすら響いてくるチャイムのせいだった。
「う……ん」
 頭痛はだいぶ治まっていたが、体のだるさは変わらない。きっと熱があるのだろう。相当に汗をかいたパジャマが気持ち悪い。何か食べて薬を飲まなければ。そう思ったが、今更食事を作る気力も残っていなかった。 
 チャイムは鳴り続けている。
 しつこい新聞の勧誘だったら、すげなく断ってやろう。
 そう決めて覗いた窓に樹里の姿が見えた時、己の意識を疑った。あまりの高熱に幻覚を見ているのかとも思ったが、何かしらの荷物を抱える彼女の姿に、暫し戸惑う。本当なら、こんな熱の出たみっともない姿を見せたくはない。しかし病んでいると越野に電話したのだから、亜佐美が部屋の中に居るのは確信しているのだろう。それほど邪険にしていると思われるのも、しゃくだ。
 ひとつ咳払いをして、玄関を開ける。
 夕方の日光を背負い、軽く汗をかいた樹里が、荷物を持ち上げて見せた。
「調子はどう? 菅先輩に頼まれて、来たの」
「あ。そう、なんだ」
 それは当然だろう。樹里が自分の意思で亜佐美の見舞いに来るとは思えない。綺麗なマニキュアの塗られた爪でスカートを撫でながら、続ける。
「これはお見舞い。お弁当を作ってきたから、少し食べて。何か食べなきゃ、薬も飲めないでしょう?」
 家政学科の樹里は、料理の腕も相当だという。後輩から聞いて知ってはいたが、実際に食べたことはない。それでも菅の気遣いだというのなら、気持ちだけでも有難く貰っておかなければ。
「ありがと。悪かったわね。手間かけさせて」
「ううん。気にしないで。じゃあね、お大事に」
 それ以上、樹里も長居する気はないようだった。引き止めて風邪を感染(うつ)すのもまずい。そう考えて、亜佐美は帰っていく樹里の背中が消えぬうちに扉を閉める。
   


 

 

[09年 11月 27日]

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