(8)

 樹里の知っていることを、亜佐美が知らなかった。
 それはふたりに取って、大きな「差」だった。
 恐らく、今日にも菅はその話を亜佐美にするつもりなのだろう。だからこそ、夜の約束を取り付けたのだ。しかし、最初に自分に知らせてくれなかった事が、亜佐美の心に暗い影を落としていた。
 ふたりで、吉報を喜びたかった。最初に彼を祝福するのは、自分でありたかった。
 それを知った夜、菅と樹里が、どんな「祝杯」を挙げたのかを考えるだけで、身が切られそうに痛む。
「おーい。井出〜、桐原〜。次のシーンに入るぞ」
 遠くから、メガホンを振り回して叫ぶ、越野の声がする。
「あ、行かなくちゃ」
 今日も美しくセットされた巻き毛を揺らして、樹里が駆けてゆく。その後姿が確かに「勝者の余裕」を見せていて、亜佐美は我知らず強く唇を噛み締めた。


 元々、亜佐美が樹里と菅の間に割り込んだわけでも、その逆でも無い。
 亜佐美は樹里と菅の関係を知らぬまま恋人同士になった。すなわち、菅に騙されていたと言っても良い。しかしそれは樹里も同様のようで、結局どちらが先に菅と深い仲になったのか、把握しているのは菅だけである。
 菅はどちらとの関係も、徹底して周りには隠していた。元々の性格がそうさせるのか、彼は誰かに自分のプライベートを詮索されるのを、ひどく嫌う。現在だって、研究会の人間ですら、菅と亜佐美や樹里の関係を知っている者は皆無だろう。自分も、親友と呼べるゼミの仲間以外には、決して話したことはない。
 だからこそ亜佐美も、菅と樹里の関係が発覚した際には驚愕した。
 よくある修羅場。
 亜佐美と樹里は、菅のアパートで鉢合わせしたのである。約束もないまま、付き合い始めの浮かれ気分で彼の部屋を訪ねた自分を、亜佐美は後々まで悔やんだ。しかし声もなく立ち尽くす女達の横で、菅は極めて落ち着いたものだった。
『あれ。君達、俺の部屋で会うのは始めてか?』
 微塵の罪悪感も見せぬ気楽さで、彼はそう言ってのけたのだ。
 自分から彼と離れようとする、理性。そして彼に対する愛おしさの狭間で、暫く亜佐美の胸は荒れ狂う嵐のようだった。元々潔癖な性質の亜佐美である。ひとりの男にふたりの女というこの状況が、簡単に受け入れられる筈もなかった。
 しかし心と体は既に、彼から離れることは出来なくなっていた。”深みにはまる”という言葉があるが、まさにその状態で、彼が居なければ夜も明けぬというほど彼を愛していた。その才能が開花する日を待ち望んでいた。
『菅さん。私と彼女と、どちらが好きですか?』
『……そんな問いはナンセンスだよ。僕は、君も彼女も、同じように愛している。君と彼女はまったく違う女性だろう。そんなふたりを比べるなんて、馬鹿げたことだよ』
 菅は、飄々としたものだった。
 もしあの時、亜佐美か樹里か、どちらかが彼を捨てていたとしても、彼はまったく気にも留めなかっただろう。去るものは追わず、来るものは拒まず。そうした彼の基本的な生き方に、亜佐美は気付いていた。だからこそ、自分から彼の手を離すことも出来なかった。
 自分から離れてしまえば、二度と彼は自分を必要としない。
 それは、樹里の側も、同じだったのだろう。ふたりは同じ位置で、彼との関係を続ける選択をしたのだった。


「どうぞ、菅さん」
 食後のコーヒーを渡しながら、亜佐美は彼の手元を覗き込んだ。
 


 

 

[09年 11月 27日]

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