(7)

「はい」
 彼が亜佐美の部屋に来るのは久しぶりだ。
 脚本を書いている間は自分の部屋にこもりっきりになっていて、人の訪れも好まない。年度が替わって直ぐ書き始めた『ちょうちょ』は、彼としても力を入れていたらしく、暫くは神経質な様子だった。
 その爬虫類を思わせる目は常に苛立ち、無精ひげを蓄えた顎は、ますます細くなっていた。きっと食事もまともに取ってはいなかったのだろう。
 それでも月に一度程度の交わりは持ったが、セックスの後、彼が長く亜佐美の部屋に滞在することも無かった。執筆に没頭している時の彼は、行為の最中も他所に気を取られていることが多い。ほとんど溜まりきった鬱憤を晴らすように抱いた後は、そっけなく部屋を後にするのが常だった。
 だから――。
 今日はゆっくり過ごせるのだろうかと、亜佐美の胸は淡い期待で弾んだ。
「待ってます」
「……ああ。それと」
 早くも潤み始めそうになる目を持て余しながら答えれば、色素の薄い瞳が見つめ返す。
 まだ、何かあるのだろうか。主人の命令を待つような気持ちで見上げる亜佐美に、菅の冷徹とも言える声が響く。
「サ行の発音。気をつけるように言ったろう」
 今の今まで浮かれていた気持ちが、地の底まで沈んで行くようだ。
 そんな自分の行為がどれほど彼女の心を傷つけるのかには全く頓着せず、菅はその場を離れていった。
「菅先輩、やっぱり嬉しそう。ね、そう思わない?」
 呆然とする彼女の後ろから、またもや聞き覚えのある声が掛けられる。振り向くほどの気力も無かったが、なけなしの意地で以って、亜佐美は背筋を伸ばした。
「井出さん、なに?」
 先ほどまで、彼女を崇拝する後輩達に囲まれ談笑していた筈の樹里は、亜佐美のすぐ近くまで来ていた。気にしない振りをしながら、先ほどの菅との遣り取りを見ていたのだろう。
「だから、先輩、良かったなあって」
「……? 話が見えないんだけど」
 正直に口にすれば、樹里はびっくり、と言った風に目を見開いた。その芝居がかった仕草も気に入らないが、どことなく哀れみの籠もった目で見られるのも気に喰わない。その哀れみがわざとらしいものであるという事など、亜佐美は百も承知だ。
「あれ、桐原さん、知らなかったの? 先輩、公募の一次選考通ったんだって」
「え?」
 菅がプロの脚本家を目指して、シナリオの公募に挑んでいるのはもちろん知っている。
 しかし最終的に選ばれる人数が極めて少ない上、きちんとしたシナリオスクールに通っているアマチュアも多く応募するため、菅が一次を通ることは稀だった。
 亜佐美もそれとなくスクールに通うことを勧めたのだが、彼の答えははっきり「否」だった。
 彼は独自の執筆スタイルを決して崩そうとはしなかったし、誰かの教えを請うことも拒んだ。それが彼のプライドなのかもしれないが、その点では、亜佐美と菅の姿勢は全く違っていた。
 その上菅は相当の締まり屋で、何事にも金を使うのをひどく嫌う。亜佐美の誕生日にすら、プレゼントを贈ってもらったことはない。それは密かに、亜佐美の不満の種となっていた。もちろん誰にも言ったことはないが。
「そ、そうなの。良かったわね」
「うん。早く有名な脚本家さんになってもらわなくちゃ」
 


 

 

[09年 11月 27日]

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