(6)

 その日の撮影は、順調に進んだ。
 特に難しい場面というのではない。淡々と、日常だけが進んで行くのだ。菅のシナリオには、いわゆる「盛り上がり」と言ったものが存在しない。登場人物達は、それぞれの生活を営み、食事をし、その合間に恋をする。
 自主制作映画『ちょうちょ』は、ふたりの女の間を行き来する男の物語だ。
 争うふたりの女性を他所に、飄々としている主人公。結局ひとりの女性は病に冒され、もうひとりは彼の子を身籠ったまま姿を消す。そして彼の周りには誰もいなくなるが、彼は何も変わらぬまま、自分の世界で生きていく……。 
 もちろん亜佐美がその『姿を消す』女の役であるのは、言うまでもない。




『男の人は、同時に何人も女の人を愛せるものなのかなあ』
 そう言ったのは、奈々子だ。
 彼女には、時折脚本(ほん)読みを手伝ってもらうことがある。
 おっとりした奈々子ではあったが、ほとんどの余暇を読書に費やしている彼女は、相手役にはもってこいだった。一通り目を通してしまえば、流れるような読みで、台詞(せりふ)の部分を朗読してくれる。時には相手役になりきって演じてもくれるのだから、これ以上の相手もなかった。
『好きになるのはひとり、であるべきだと私は思うんだけど』
 菅を挟んだ、亜佐美と樹里の関係を知ってはいる。しかし生まれ持った気質のためか、奈々子の口調に嫌味は感じられない。
『どちらも選ばず両方の女の人と付き合っているというのなら、私はこの主人公が誠実だとは思わないな』
 奈々子がふと洩らした言葉に、衝撃を受けなかったと言ったら嘘になる。
 亜佐美自身は、常に人に誠実であろうとしてきた。
 誰かを傷つけることも嫌いだし、人を踏み台にしたり、嘲笑したりすることも好まない。自分に絶対の自信があるからこそ、人と自分を比べたりもしない。余計な卑下もしない。
 でも――。
 菅のことだけは、自分でもどうしてか解らない。何故こんな事になってしまったのか。菅の向こうにもうひとりの「女」を感じながら、自ら別れを言い出すことも出来ず、さりとて向こうの彼女と別れてくれとも言えない。
「桐原、顔色が良くないぞ」
 撮影の合間、用意されたチェアーに腰掛けていると、何気なく菅が声を掛けて来た。自分では自覚がなかったが、菅がそういうのだから、きっとそうなのだろう。彼は他人の体調や変化に鋭い。普段から、それだけ人をよく観察しているという事だ。
「菅さん。……そうでしょうか。昨日雨に打たれて、少し冷えたのかもしれません」
「大丈夫なのか?」
「はい。平気です」
 確かに、少し喉が痛み始めている。しかし明日は、週一回の英会話の日だ。どうしても休むわけにはいかない。
 将来、メディアでの仕事を目指している亜佐美は、自分に投資を惜しまない。
 週一回の英会話に、エステ。
 月に二回は、マナーを学ぶために上京し、その傍らでアナウンサーの講座も受けている。
 元々高校までは、漠然と教師になろうと思っていた。両親も現在中学校で教鞭を取っており、ひとりいる兄も、先年同じ職についたばかりだ。そのため教職を取れる大学・学部を選んだのだが、ふとした気まぐれで入った映画研究会で、”ものづくり”の魅力にとりつかれた。今では、何かを発信すること。それが自分の天職だと感じてさえいる。
 もっとも、テレビと言った華やかな媒体よりも、ラジオのパーソナリティのような役目が自分には向いているだろう。自分ではそう分析しているが、菅はこのまま”女優”を目指す道を勧めてくれる。好きな男にそこまで言われて、悪い気はしない。
「じゃあ、今晩、行く」
 伺いではなく通達のような形で、菅の言葉は届けられた。
 亜佐美の胸がどきん、と鳴る。
 


 

 

[09年 11月 27日]

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