(5)

「今回のこと、いい勉強になった?」
「……うん」
 返るのは、力ない頷きばかり。溜息が出そうな己を制して、亜佐美は柔らかな声が出るよう努めた。自分の名女優ぶりを褒めてやりたいほどに。
「じゃあ、私の言いたいことも、解るでしょ?」
「たぶん」
「もう、心配ね」
「ごめん」
 仕方ない、という苦笑が伝わったのだろうか。栞の肩の力が抜ける。 
 意を決したように顔を上げた彼女は、今日始めて真正面から亜佐美を見た。
 元々小作りな顔が、やつれてしまったせいで、一層瞳が大きくなったようだ。疲れと悲しみが垣間見えるそれに、亜佐美の胸も僅かに痛む。友人を可哀想などとは言いたくない。それは酷い思い上がりだ。
 誰も、他人を助けてなどやれない。しかし、力になることは出来る。亜佐美はそう信じていた。
「もう少し怒られたほうが気が楽になるというのなら、そうするけど?」
「……これ以上、へこみたくない」 
 まさしく本音だろう素直な返答に、亜佐美はふふ、と笑った。つられて笑みを見せた栞が、次の瞬間苦しいような表情を浮かべる。何か、といぶかしんだ時には、彼女の口から言葉が滑り出していた。
「先生、が」
 『先生』というのは、彼女の婚約者である野田のことだろう。
 亜佐美も一度だけ会ったことがあるが、正直、亜佐美が好ましいと思うタイプの男性ではない。しかし人間はそれぞれ惹かれる部分が違うのだから、と納得した。こういう面で、亜佐美は非常に柔軟な思考の持ち主である。
「……もう一度、やりなおそう、って」
 呆れた男だ。
 あれだけコケにされて、それでもまだ彼女を許そうと言うのだろうか。
 それが栞を愛するが故なのか、それとも唯一自分を愛してくれた女を繋ぎとめておきたいという男のズルさなのか、亜佐美には判然としない。
 なるほど栞は、この話をしたくて亜佐美を呼んだものだろう。男っぽいと見せかけて思い切りの悪いユイでは相談相手にならないし、異性関係に疎いばかりの奈々子に出来る話でもない。
「で、栞は? どうしたいの」
「どうしたい、かなあ」
 なんとも心もとない答えだ。しかしそれが充分彼女の葛藤を表している。
「あのさ、私は栞じゃないから、ああしろこうしろとは言えないよ。でもね」
 縋るような大きな瞳が、亜佐美の答えを待っている。あんな目に遭っても、それも栞は待っているのだ。誰かが「戻りなよ」と言ってくれるのを。自分の意思ではなく、誰かに背中を押された形ならば、自分の中の罪悪感が少しは薄れるとでも思っているのだろうか。
「そういう事を他人に話す時点で、もう栞の中では答えが出てるってことでしょ?」
 ずばりと口にすれば、相手が黙る。図星だったかと思い、僅かに苛立ちが先立つ。
「もう止めれば? 人に振り回されるのは。今自分で選らばなかったら、どういう人生を送っても後悔ばっかりが残るんじゃない?」
 噛み締めた薄い唇が、震えている。
 それを見遣って、亜佐美は席を立つ。撮影開始まで、20分を切っていた。気配に気付いて下から見上げる栞の目は、動揺に揺れている。
「亜佐美……」
「どういう選択をしたって、私は栞を軽蔑したりしない。それだけは、言っておくよ。栞の人生だもの。自分が一番納得出来る道を選ぶしかないでしょ」
「……嫌わないでね」
 その言葉が、栞が出した結論を物語っていた。
 通常であれば、あのような事をしでかした女は、婚約者の元へは帰れないだろう。常識というよりは、心の問題で。しかし男と女の仲だけは、解らない。古今東西、例を挙げるまでもないくらいに。
「勇気ある選択だと思うよ。ある意味」
 それだけを言い置くと、今度こそ亜佐美は学食を後にした。
 様々な形の恋がある。
 切っても切れぬのが「縁」ならば。
 自分と菅、そして樹里のそれは、どこまで複雑に絡んでいるのだろう……?


   


 

 

[09年 11月 26日]

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