連作短編2

 

(9)

『理子、すぐ来てくれ。駅前のいつもの店だ。すぐだぞ、すぐに!』
 一方的に告げられた電話は、切られるのもまた急だった。
 教室に繋がるシンとした廊下には、今タケシの電話の向こうで聞こえていた喧騒が響いているように感じられる。
 恐らく、いつものパチンコ屋なのだろう。独特の反響音と聞き取りにくい声に、そう察しをつける。
 いつもならば、言われるままに飛んでいっただろう。しかし、今日は少し違う。菜摘のブーケが、あらかた輪郭が見えてきた所だったのだ。
 最後の工程まで、あと少し。教室の机の上には、完成を待ちかねる花の束が、幸せの象徴のように存在を誇示していた。
 ピンクのバラを基調に、オレンジのバラとかすみ草を入れたブーケは、菜摘のイメージ通りだった。
 このブーケを受け取った彼女は、どんなに可愛らしい花嫁だろう。
 愛し、愛され、大切に想われて……。やがて子を成し、女としても母としても、自分の道を歩いていくのだろう。夫となる男性と共に。
 一瞬の内にそれだけの感慨に耽った彼女は、それでも講師の浅倉に急用が出来た旨を告げると、己の鞄を取った。
「まあ、残念ですね。あと少しで完成なのに、このまま放っておかれるなんて」
 そこには、些かの嫌味も加わっているように聞こえる。確かに理子とてこのまま行くのは惜しいが、彼女の選択に「タケシを無視する」という項目はないのだ。
「本当に、すみません。時間内に用件が終るようでしたら、戻ってきますし」
「今日は、5時で教室を閉める予定です」
「解りました。もし駄目でしたら、すみません」
 現在、二時三十分。間に合うだろうか。微妙な所だ。
 隣に座る幸枝が、心配げな顔で理子を見つめている。先ほど電話を取った際にも、僅かに顔が曇ったような気がするのだが。
 しかし、今はそんな事にも構っては居られない。
 机の上に置かれたままのブーケを一瞥して、理子は何かを振り切るように、教室を飛び出した。
 車に乗って向かう先は、タケシ行き付けのパチンコ屋。「本日大感謝際祭!」と書かれたのぼりが立つ駐車場に車を入れると、理子は携帯を取り出した。
 ところが……。いくら呼び出し音を鳴らしても、相手は出ない。
 コール音が鳴る所から、電波が繋がらないわけでは無いだろう。気付いていないのだろうか。それとも、何かあったのでは。
 不安に駆られながらも、理子は携帯を握り締めた。やがて虚しい留守電のアナウンスを幾度か聞いた後、理子は疲れたように、携帯を切った。
 しかし、もちろん電源は切れない。いつタケシから折り返しの電話が来るか解らない。
 店の中に入ってみれば良いのだろうが、何しろ大きな店舗で、一体タケシがどの辺りにいるのか見当も付かない。それに店の中に入ってしまって、もし入れ違いにタケシが遣ってきたら、鍵を持たない彼の行動はだいたい読める。
 理子が車の中にいなければ、タケシは腹を立てて、連絡もくれずに帰ってしまう。そんな不幸は一度ならず経験した。
 結局、この時に理子が下した結論は「車の中で、タケシを待つ」という、ひどく消極的なものだった。車の後部座席に常備してある雑誌を取り出せば、既に何度か目を通した一冊だった。表紙の裏側には、発売されたばかりの、シャンプーとコンディショナーの広告。
 赤いバラが飛ぶその美しい写真に、教室に置いてきたブーケが思い出された。

 ピピピピ……と鳴る音に携帯を取り出せば、タケシの名。
 なんと時計は既に四時半を回っていて、さすがに車の中に居るのもうんざりしてきた頃だった。通話ボタンを押せば、上機嫌なタケシの声。相当に勝ったのだろう。雰囲気で解る。
『あ、理子? ごめんな〜。実はさあ、今当たりまくってて、まだ確変中。いや、すげーわ。この台』
「……」
 もはや言い返す気力も無い。大袈裟にため息を吐けば、気配で察したのだろう。タケシが慌てて言い募る。
『帰ったらさ、なんか奢るから。美味いもんでも、食いに行こーぜ』
「……どうして、私を呼んだの?」
 理解出来ない単語はそのままに、相手に問う。すると、タケシの悪びれもしない言葉が返った。
『えー? ああ、金無くなりそうだったからさ。お前に借りようと思って。でもさあ、最後の五百円でキたんだよ。スゲーダロ?』
 ぷつん。と、何かが切れた。
 それは余りにもあっけなく、自分でも驚くほど、簡単に臨界点を越えていた。
「……ないで」
『ええ?』
「ふざけないで!!」



 

        

 

 

[12年 06月 24日]

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