(8)

「先輩、アタシの事、馬鹿にしてません?」
 立ち上がった音は、店中に響いただろう。
 何人かの客が、驚いたようにこちらを振り向くのが見える。今やユイは、店内の注目の的になっていた。
 こんな最悪の場面で、ドラマの主人公になってしまった自分が悔しかった。
 もっと格好良く決めたかった。
 でも、逃げるようにこの場を去るしか、今のユイに残された手段は無かった。後に残る西原が、店の客にどんな目に見られるのかなんて、気にする暇も無かったのだ。
 走って、走って、通りを抜けた。
 先日西原と観た映画は、既に上映されてはいないようだった。なんだかあっという間だったけれど、実際付き合い始めて二ヶ月近くが経っていた。
 ぼんやり歩き出しながら、ユイは自分のサンダルのつま先を見つめている。
 ユイは昨日、ペディキュアを塗りなおした。可愛らしい、ピンク。それは、付き合いだして暫くしてから、西原がユイに買ってくれたものだった。
 自分は、西原と付き合いだしてから、それなりに努力した。
 ダイエットもした。話題のダイエットに挑戦したおかげで、以前の自分よりも一回り細くなったと、友達の間でも評判だ。
 こっそり、エステにも行った。美容院も行った。ずいぶん前に止めていた、女の子向けの雑誌も買い始めた。大好きなアイスクリームだって止めて、西原の為に綺麗になろうとしたのに。
 せめて、西原が一言でも「可愛い」と言ってくれたなら。
 自分を好きになった理由に「可愛い」を挙げてくれたなら。
 それだけで、自分は満足できたのに。

 追いかけてこない後ろが、妙に切ない。
 西原とは別れよう、と決めた。
 ふたりでいるのが、ひとりでいるよりも切ない。
 付き合っているのに寂しいのならば、もう止めようと思った。


「ユイ、西原先輩と別れちゃったの?」
 ユイの部屋で相変わらず漫画を読みながら、栞が切り出す。
 西原と付き合う前に縁を切った筈の栞とは、なんとなく仲が戻っていた。あの時は絶対に許せないと思ったけれど、西原と別れたユイには、栞の存在が有難かった。
「別れたって言うか……初めから、付き合っていなかったようなものだし」
「うわ、西原先輩、カワイソ」
「どこが? アタシのほうが、よっぽど可哀相だよ」
 その言葉に偽りは無い。
 自尊心を損なわれ、時間もお金も無駄にした。
 西原と別れた数週間で、体重は元通りどころか以前よりも増していた。肌だって、お菓子の食べすぎでぼろぼろになっていた。
 結局、はっきりした別れの言葉は口にしなかったが、なんとなく気配で察したのだろう。西原がユイに近寄ることも無くなった。
「でもさあ、先輩、ホントにユイの事好きだったと思うけど?」
「まあね、アタシの男前な所に惚れたのよね」
 言い切れば、驚いたように栞がユイの顔を見つめる。食べていたチョコレートを一旦飲み込むと、栞は一口コーヒーを飲んだ。
「それじゃ……いけないの?」
「は?」
 栞の言っている意味が解らない。思いっきり眉を寄せてやれば、栞が頬杖をついて、上に向かって息を吹いた。
「それじゃいけないの? って聞いてるの。じゃあ、ユイは自分の何処を好きになって欲しかったのよ」
「どこって……そりゃあ」
 容姿とか、女らしさとか、褒められたい所なんてたくさんあるし、どうせならば女性らしい所を好かれたい。だって、女なんだから。まあ、家庭的な部分が壊滅的なのは自分でも解っているから、この際それは棚上げだ。
 言いよどむユイをどう取ったのか、栞が続ける。
「あのさあ、私の先生、知ってるでしょ?」
 先生≠ニいうのは、栞の婚約者の事だ。
 高校の恩師と付き合って結婚の約束をしている彼女は、今でも相手のことを「先生」と呼んでいる。それが習慣から来るものなのか、彼女の意地なのか、ユイには判別つかない。
「正直言って、格好良くも無いよ。背だって低いし、丸いし、歳だって喰ってるし」
 とりあえず反論すべき箇所は無いので、ユイも黙って聞いている。
「でもさ、私、先生の良い所、いっぱい知ってるよ。他の人が知らなくても、解らなくても、私だけかもしれないけど、先生の近くにいると安心する」 
 だから何? と言いたいのをぐっと我慢する。たぶん、栞はユイに何かを伝えたがってる。それは、ユイがずっと見落としてきたもの。
 ユイが、本気の恋にめぐり合えなかった原因。
「好きになるきっかけって、そんなもんでしょ? 恋って本当はそんなに特別なものなんかじゃ無くて、些細なことで始まるし、ドラマとはやっぱり違ってる。ドラマみたいな恋をする人なんて、一握りだよ。でも、好きになるのは、ミンナ同じ」
 誰かが自分を好きになってくれるなんて、それだけで凄いことだって、気付かなきゃ。
 そう言うと、栞はまた漫画に目を落とした。
 


 

 

[09年 10月 14日]

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