4−(1)

 今日も今日とて仕事中――の筈も無く、老舗旅館「ほまれ屋」総支配人・勝呂誉史樹は、目の前にある書類を見つめて溜息を吐いていた。
 この男が溜息を吐くのは珍しくない。しかしその溜息が常のように気だるげな、やる気のなさを滲ませるものとは違い、明らかに困惑を乗せたものであるというのには理由がある。
 先日、相も変わらず掛かってきた、大学時代の友人・小野からの電話。
『頼みがある』
「相変わらず、いきなりだな、お前」
『すまん。あまり時間が取れないんだ。用件だけ話すぞ』
 都内の大学で准教授の職に就いている小野は、その熊のような外見に似合わず、国文学――特に中世を専門とする学者である。あんな外見(ナリ)で『平家物語』を論じているのだというから、生徒達も講義の間中、笑いを堪えるのに必死だろうと勝呂は意地悪く考える。
『俺の同僚で、民俗学を専門にしている男がいてな』
「民俗学?」
『要するに、昔からの伝承やら習慣を体系的に分類、研究する学問だ』
「つまり、昔話で熊はどんな役割か、と」
『……真面目に聞け』
 本当に時間が無いらしい。毎度繰り返される勝呂の軽口に乗ってこない所を見ると、真剣に聞いておかねば後々まで文句を言われそうだ。
 「総支配人室」とラベルの貼られた電話機を持ち上げソファに寝そべりながら、話の続きを待った。何故に人は、電話機のコードを指に巻かずにはおられないんだろう。それは永遠の謎では無いだろうか。
「それで?」
『ああ。最近この男が”吉祥天”について調べているらしいんだが』
「……」
『おい、勝呂?』
 それまで呑気に電話のコードをぐるぐると巻いて遊んでいた男が、その一言にぐっと押し黙る。沈黙の続く相手にそれを察したのか、螺旋の向こうで、小野の声も気持ち低くなった。
「ああ。聞いてる。それで?」
『お前のトコに、確かあったよな。曰く付きの”アレ”が』
「……丁重にお断りする」
『おい!』
 受話器を置こうとする気配を感じたのだろう。追いすがるような小野の声がする。ここで切ってしまっても良かったのだが、それでも一抹の不安を感じたのは、やはり彼が口にしたモノがモノだからだろうか。
「お前、あの絵の事を話したのか? そいつに」
『いや……詳しくは』
 だったら、それで良い。深く関わらない事に、越したことは無いのだ。しかしそれを告げる前に、小野の口から、とんでもない一言が飛び込んできた。
『でも、最近、アレと全く同じような事件が起きてるんだと』
「……なに?」
『もちろん、別の”吉祥天”には違いないがな。だから、俺もお前んトコの話をしたんだ。そしたらそいつが、是非にも見せて欲しいって』
 それは、確かに勝呂にとっても興味深い話だ。
 あの絵に関しては、例の惨事から速やかに御祓いをして、勝呂家納戸の奥深くに仕舞われている。まさに門外不出の一幅と言ってよい。しかしそれと類似した出来事が別の場所で起きているなどというのは、俄かには信じがたい話だ。しかも、それを調べている人間がいるだなんて。
 勝呂は、ふう、と溜息をひとつ吐いた。
 自分はオカルトや迷信を全く信じない人間ではあるけれど、あの「絵」に関してだけは自論が揺らぎそうになる。
「なんて名だ?」
『あ?』
「その、研究者だよ。泊まりに来るんだろ?」
『あ、ああ!』
 電話口でもそうと解るほどに安心したらしい小野が、男の名を漢字付きで説明していくのをメモに取っていく。しかしその後に落ちた沈黙が、小野の複雑な心情をよく物語っていた。
『悪い男じゃ無いんだがなあ……』
「なんだよ? 酒癖でも悪いのか?」
 混ぜっかえせば、『それなら、どんなに良いか……』と、疲れたような反論。
 そして小野から出た言葉は。
『変わった男……なんだ。ああそりゃもう、お前と張るくらいに』
 


 

 

[09年 12月 26日]

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