2−(1)

「で? 今回はなんの謎かけだ」
『……』
 電話の向こうで沈黙を通そうとする相手に、勝呂は半ば諦めたように声を掛ける。
 目の前には、缶ビールの六缶パックがひとつ。“KARAKUCHI”の文字から始まる、人気ラベル。今朝方小野から届いたそれは、歳暮などと言った気の利いたもので無いのは明らかなようだ。
 おかしな沈黙が続く。おそらく勝呂の指摘は間違っていないのだろうが、小野の心中にはなんらかの躊躇いがあるらしい。自分でも意外な程辛抱強く待ってやれば、意を決したような相手の声がした。
『お前の言う通り、相談したいことがある……だが』
「あん?」
『初めに、笑わないと約束してくれ』
 相変わらずもこの古い友人は、熊のような形に似合わぬ、ガラスの如き繊細さを失ってはいないらしい。仕方ない、とひとつ溜息を吐くと、勝呂は受話器を握り直した。
「解った。約束する。ただ、あんまり時間は取れねえぞ。手短に頼む」
 あまり長くなると、母・光代のお小言がいつものように始まりそうだ。お飾りとは言え、老舗旅館の総支配人。勝呂とてそれほど暇では無い。現在夕刻の四時半過ぎ。遅くとも六時までには解決をみたいものだ。
『……解った。実はな、ええと、なんというか……』
「箇条書きにでもして話せ、文学部准教授」
 それほど話しにくい事なのだろうか。前回自分の教え子の犯罪を告白する際だって、もっとハキハキしていた筈だ。
『うるせえよ。あのな、はっきり言うぞ。今、俺には気になる女性がいてな』
「メスのツキノワグマか」
『……一遍殴らせてくれ』
「嘘だ。それで?」
 なるほどそれで合点がいった。要は女性の話なのだ。そのためにこれほど小野は言い渋っているのだろう。彼が三十にもなって、驚くほど恋愛経験値の低い人間だということは、長い付き合いの勝呂はよく心得ている。
『隣の研究室で、助手みたいな事をしている人でな。ずいぶん前から知ってはいたんだが、たまたまこの間学会で一緒になって』
「ふたりの距離が急速に近づいた、と」
『……ああ、まあ、そんなもんだと思ってくれ』
「それで?」
 それならば、めでたい話ではないか。だのになぜこんなに小野の声は沈んでいるのだろうか。それが気にかかる。
『この間、学内の飲み会があってな。彼女、俺の家と近いもんだから、歩いて送って行ったんだ。彼女は余り飲めないようだったが、割に上機嫌だったように思う』
「ほう、良かったじゃないか。お前にもようやく春が来そうだな」
 ありふれた表現で祝う気持ちを示してやったのに、それに返ってきたのはとてつもなく重い小野の溜息だけだった。
『それがな』
「ああ」
『俺は失敗しちまったらしい』
「なにがだ?」
 またも、無言。埒が明かないと踏んだ勝呂は、ずばりと切り込むことにした。
「まさか、襲っちまった?」
『そんな事出来るはずが無いだろう! 俺は、キスしただけだ! あ……!』
「なーるほど」
 気持ちの確認もせずにか。全くこいつらしいと思いながら、しゅーんとしているだろう熊を想像する。あまり、可愛くは無い。
『だってな、酔って赤くなった頬が可愛らしくて、それで、つい……』
「ほ・お? ……口じゃ無くて?」
『ああ。それでも、俺にだって理性は残ってたんだ。当然、すぐに謝った。必死に謝った。でもその後、彼女は不機嫌になっちまって』
「それはお前、理性の働かせる場所が違ってるだろうよ」
『……だな』
 なんできちんと告白しなかったんだ、なんて事は口にしない。そうは言っても、三十になった男にそれが極めて失礼な発言だろうということくらい、勝呂も解っている。


 

 

[09年 03月 20日]

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