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 大学時代の友人である小野から勝呂に電話があったのは、世間がゴールデンウィークに入る直前の晴れた日の事だった。彼はその年度の初めに念願叶って某大学の文学部准教授となっていて、勝呂は友人の吉報にわざわざ大学宛で祝儀を送ってやったばかりだった。察するに礼の電話だろうと、およそ文学専攻らしくない立派な体格を持つ彼が小さな携帯を握り締めている様を想像してニヤリと笑いながら電話を取った。
「おー、小野か。どうだ。学園生活は楽しいか?」
『ああ勝呂、済まんな。ちょっとばかり相談があるんだが、聞いてくれ』
 聞こえてきた声は思いがけず硬く、彼の大きな目の上に存在する立派な眉がひそめられているのまで見えるようだ。
「どうした。金の話なら要相談。女のことなら他所へ行け」
『……どっちでも無い。とりあえず、黙って聞いてろ』
「へーい、センセイ」
 元々せっかちな男ではあるけれど、ここまでなのは珍しい。何かあったのだろうかと思わず身構える。
『その呼び方は、止めろというんだ。で、ひとつ、聞くが』
 重苦しい雰囲気で、小野がゆっくり切り出した。何かまずいことをしただろうか? いやしかし最近は忙しくて互いに連絡すら取っていなかったのだから、小野の気分を損ねるような事をやらかしたような記憶も無い。
「ああ、ウチの経営状態なら順調だ。4月の客足が思った以上に良くてな。売店の売り上げだけでも大したものだぞ。送ってやろうか、さくら饅頭」
『いらんっ。誰がお前んとこの旅館なんぞ気にするかっ! この怠慢社長っ!』
 電話口で吼え始めた。
 確かに自分は気楽な旅館の3代目だが、父亡き後結構がんばっているのに、と勝呂は思う。実際旅館を切り盛りしているのは母の光代で、自分の印鑑などあって無きが如しだろうが、それでもお得意様回りの営業や、地域の旅館組合の会合など「出て行けば場が華やぐ」と言われるほどの容姿を持つ自分で無ければ出来ない仕事を結構こなしてはいるのに。
「じゃあ、なんなんだよ。あのなあ、俺だって暇じゃないんだぞ」
『さっきから話が進まんのは誰のせいだ!』
「少なくとも、俺じゃない」
『あ〜』
 電話の向こうからぴりぴりした気配が伝わってくる。あの大きな手の中で携帯が割れるんじゃ無かろうか、と少々心配になる。
『だから、お前、だな。俺のご祝儀、中身を入れ忘れたなんてことは無いよな?』
「は?」
 意味がよく解らなくて、勝呂は暫し受話器をじーっと見つめた。受話器の中から「おい? おーい?」という、間抜けな小野の声がする。
「……入って無かったのか?」
 冷静に数日前の行動を思い起こす。そんな筈は無い。札の向きをどちらにするのか。諭吉の顔が上にくるのか下にくるのかで母と揉めた記憶がある。
『それがなあ、解らんのだ』
「はあ?」
『だから、俺も困っている』
「お前、三万の金にも困る生活なのか?」
『違うっ! お前の金をあてにするほど貧乏してる訳じゃないっ。アホっ!』
 ……アホは無いだろう、アホは。仮にも祝儀を送ってやった人間に対して。しかし三十の大台を越え、「寛容」という言葉を覚えた勝呂は彼の暴言にも黙って耐えてやった。電話ゆえに、殴り合いの喧嘩になり得ないという事情もある。
「じゃあ、なんで解らないんだ。お前、開けたんだろ?」
『鋏は入れた』
「真ん中にか。そりゃあ、札は真っ二つだわな」
『違うっ! 上の部分だけ切ったんだ!』
「ああ、そうか。で、中を見たんだろう?わくわくしながら」
『わくわく、は余計だ』
「じゃあ、テカテカしながら」
『誰が、艶の話をしている』
「あー、お前まだテカテカしてんのか。そろそろ、枯れろよ。もう、三十だろ」
『うるせーよ! お前みたいに、大学ん時から枯れてる奴と一緒にするな!』
 そのまま電話を切ろうかという勢いの小野を宥め、何とか話を最初に戻す。こちらとしても、送ったはずの物が無いかもしれないと聞けば、いい気持ちはしない。
「で?とにかく落ち着いて話せ。お前は、封は切ったが、中は見ていない。一体、どういうことだ?」
『ああ。それがな……。身内の恥を晒すようで情けない話なんだが、ウチのゼミ生の中に素行の悪い者がいてな』
「お前のゼミってなんだっけ」
『中世文学だ』
「コレステロールとか、あれか」
『お前、いい加減にそっちから離れろ。誰が脂肪の研究をしてるんだ』
「ああ、すまん。ええっと、なんだっけ。そうそう、ちゅうせい文学」
『要するに、平家物語とか、太平記とかその辺だ』
 あの熊みたいな顔で平家物語かよ、と思えばかなり笑える。しかしこいつの卒論は確か『平家物語なんとかの段』だったな、とアパートの隣室でみた卒論の束を思い出す。法学部出身の自分は、結局卒論は書かず終いだった。
「まあ、研究の内容はこの際良いとして、素行の悪いってどういうことよ? 大学生にもなって素行うんぬん言ってるわけ?」
『いや、確かにそいつ……柴崎というんだが、頭は金色だしピアスはしてるしだが、それは特に問題じゃないんだ。だが、最近は授業にもまともに出てこなくてな』
「バイトしてるとか?」
『それなら大したもんだが、そんなまっとうなもんじゃない』
「警察のご厄介になるようなこと?」
『そこまでは、いかん。でも、今のままなら。近いうちにお世話になるかもしれんが』
「何なんだよ、一体」
『パチスロさ』
「パチスロ?」
 ああ、あれは一歩間違えれば身を滅ぼすね、勝呂は深く同意する。自分だってたまに、それこそ組合の飲み会の帰りにオジチャン達に混じって遊ぶこともあるけれど、あれは節度ある大人がやるべき遊びだ。自分で金を稼いで、少し遊んで、それでまた明日から真っ当に働くか〜という人間しかやっちゃいかんと勝呂は考えている。
「負けてんのか? 勝ってんの?」
『そこまでは知らん。他人の財布だしな。ただ、このままじゃ卒業も危うい。今年は本腰を入れて就職活動もやらなきゃいけないんだが、相談室に顔を出している様子も無い』
「どっかの坊々じゃねえの? 就活する必要もねえとか」
『ああ、お前みたいならいっそ助かるけどな』
「俺は、大学に帝王学を学びに行ったんだ」
『民法の単位落とした奴が何言ってやがる』
「変な事覚えてるな〜、お前。文系の根暗なんて最悪だぞ」
『話を戻す』
 この辺の流し方は、さすがに長い付き合いだ。小野も心得ている。 


 

 

[09年 03月 20日]

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