(4)

 やがて駅に着いた電車が、扉を開く。
 その時を待ちかねていたように外に飛び出した栞が、突然口を開いた。
「小久保先輩」
「な、なに?」
 驚きに、小久保の声も裏返っている。すると素早い動きで、栞が小久保の手を取った。
「先輩の欲しがっていた参考書、あの本屋にありましたよ」
 彼女が指差したのは、映画館のある通りに位置するこじんまりとした古本屋で、学生の求めるような専門的な参考書が積み上げられているのだ。ユイも、栞も、いや、大学に在籍する文学部の学生は、ほとんどがそこのお世話になっていると言っても良い。
「え、ちょっと、栞ちゃん?」
「行きましょう、行きましょう。私、教えてあげますよ。すみません、西原先輩。映画、ふたりで行ってくださいね」
 そこまで一気に言うと、栞はうろたえて振り返ることも忘れた小久保の腕を握って、ずんずん歩き出す。ふたりの姿は、直ぐに人ごみに紛れて見えなくなった。
 駅前には、何が起きたのか解らずに呆然と立つ西原と、栞のたくらみに気付いて、またしても憤慨するユイが残された。
 栞、絶対に許さないから、とユイは決意する。
 当分、講義だって隣に座らない。ノートも貸さない。
 栞の単位がギリギリだというのは知っている。このままでは、卒業だって危ないというのも。
 大学を出た後に結婚が決まっている栞は、成績にはまったく拘らない。とりあえずその日一日を楽しく暮らし、好きなように過ごせば良いのだ。その姿勢は、時にユイの癇に障る。
「ユイちゃん……どうする?」
 困惑しきり、と言った西原が、頭に手をやりながら尋ねてくる。そう言えば、今日の西原の髪型に寝癖は見られない。
 一応西原は西原で、気を遣って来たということなのだろうか。
 それまで一言も発することの無かったユイは、途端に自分の格好が彼に申し訳なくなった。
 しかしそれは、可愛い私を見せてあげられなくてごめんね、先輩≠ニいう、至極勝手な心の声であったのだが。
「とりあえず、映画行きましょうか。ここまで来て、観ないのも馬鹿らしいし」
「う、うん。そうだね」
 努めてそっけなく言い置いて歩き出す。
 西原が万が一にも手など繋がなければ良いが、などと心配しながら、手を自分の後ろで組み、歩き出した。


「面白かったですよね〜」
「うん。やっぱり、あのシリーズは面白いよ!」
 映画館に入るまでの低気圧もなんのその、映画を観た高揚感からか、外に出たときの二人は傍目には仲良さげな恋人同士に見えたかもしれない。
「剣を握った時に、後ろから石が落ちてきたじゃ無いですか! もう私、どうなるのかと思いましたよ」
「うん。俺も。早く逃げろー! って叫びそうになっちまった」
 興奮して早口でまくし立てながら歩くふたりを、すれ違う人間がちらちらと眺めていく。
「小久保達も、一緒に観れば良かったんだ。そうしたら、絶対面白いって言ったはずなのに」
 小久保の名を出され、興奮の収まって来たユイに対して、西原のテンションは落ちることが無いらしい。そのままの勢いでしゃべりまくる。唐突にここがアーケードの真ん中だという事に気付いて、ユイは多少羞恥を覚えた。
 そんなユイには気付かずに、自分の世界に入ってしまったかのような、西原の独語は続く。
「なんで行っちゃったんだろうなー。ああでも、気を遣ったのか。俺がユイちゃんのこと好きなの知ってるから」
 ……。
 その瞬間、ユイの世界は止まった。
 今、西原は何と言ったのか。
 もしかして自分は今、とても歴史的で、記念に残る体験をしているかもしれないのに。
「ユイちゃん……?」
 自分が口にした内容に、気付いていないのだろうか。西原が何気なく顔を覗きこんでくる。
 ああもう、少し放っておいて欲しい。自分は余韻を噛み締めたい。
 って、それは無理だ。
 好き。……好き?
 こんな場所で。自分はこんな格好で。
 いやいや、それ以前に、そんな告白は無いだろう!
 


 

 

[09年 09月 26日]

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