(11)

 夏休みに入り、ユイは栞と花火を観にいく約束をした。
 毎年、お盆に入る直前、近くにある湖でちょっとしたお祭りがあり、そこで無数の花火が打ち上げられるのだ。
 これまでは、夏休みと言えば実家に帰るのが決まりごとだった。もちろん今年もその予定でいたのだが、何しろ西原がいつ帰ってくるか解らないし、溜まったゼミレポートも、この休みにやっつけてしまいたかった。
 地元の図書館では、やはり専門書は足りないし、大きな図書館に通うにもここに居たほうが都合が良い。
 高校のクラブ顧問に忙しい栞の「先生」は、休みも相当後半にならないと自由な時間が取れないのだと言う。そのため暇を持て余した栞は、代わりにユイを誘ったらしかった。
「『今年は、絶対に全国大会に行くんだ』って。レベルが高いって張り切ってたから、当分会えないんじゃないかなあ」
 囲碁・将棋クラブの顧問をしているという彼氏と、栞は電話で散々揉めたらしい。こうなれば、こっちで浮気してやるんだから≠ネんて怖いことを言っていたけれど、結局は大人しく、彼が休みになるのを待つのだろう。
「ほら、出来たよ」
 姿見に映った自分を見て、ユイは自分でもなかなか、と頬を染めた。
 栞は、大学に入ってから呉服屋のバイトに通っている。そのため、浴衣の着付け程度であれば出来るように、店で特訓したらしかった。そのため、花火なんだから浴衣でしょ、と主張する彼女に従って、実家から気に入りの浴衣を送ってもらったのだった。
 紺地に細かな紫陽花と幾重にも線が描かれたその浴衣は、実際のユイよりも、幾分身長を高く見せてくれた。
 胸はタオルを入れる必要が無いほど豊かだし、後は背筋をまっすぐにして歩けば、なかなかのものだろう。
「栞は? 着替えないの?」
 後ろから満足そうに姿見の中を覗き込む栞を見返せば、「ん、うん」と曖昧な返事が返された。
 訝しい思いで首を捻れば、栞はなんだか壁の時計を気にしている。その時アパートの外から車のエンジン音がして、彼女がホッとしたように息をつくのが目の端に映った。
「栞?」
 探るように尋ねれば、栞はにこりと微笑む。腕にはユイの浴衣用の鞄と下駄を持ち、大事そうに差し出した。
「行ってらっしゃい。ユイ様。お迎えが来ますよ」
 大仰な仕草でそう言うのと、玄関のチャイムが鳴るのはほぼ、同時だった。驚きに言葉も無く見つめれば、栞の瞳が優しげな色を湛えて細くなる。
「ほら、行ってらっしゃい。今度こそ、間違えちゃダメだよ」
 後ろから背を押され、玄関に向かう。そっと伺った小さな覗き窓からは、緊張した面持ちの西原の顔。振り返ってみれば、栞は器用に片眉を上げた。
 震える手で扉を開ければ、戸口に立った西原が、一瞬目を見開いたのが解る。
 ユイはその瞳を見つめ返すと、照れくさい思いで、西原に話し掛けた。
「先輩」
「ああ、ユイちゃん。遅くなってごめん。車借りるのに手間取っちゃって」
 そう言われても、一体栞が何時に西原と約束したのかを知らないユイには、答えようが無い。しかしそんな西原の相変わらずなマイペースさを、今度ばかりは愛おしいと思った。
「先輩こそ、お帰りなさい」
 震える声を押し殺して言えば、西原がふいを突かれたように、一歩身を引いた。ええいこの軟弱者、とも思ったが、それほど腹が立たないのはどうしてだろうか。
「ええと、うん。ありがとう。えっと、ユイちゃん」
「はい?」
 下から見上げれば、ちょっと逞しくなったように見える西原の顔。
 実習で散々揉まれて来たのだろうか。少し、大人っぽくなった。猫背も気持ち直った気がする。
 いやこれは「あばたもなんとか」というやつだろうか。しかしあれは、男の人が女性に対して使う言葉かもしれない……などと、余計なことまで考えてしまうのは、やはり緊張のせいだろう。
 西原はいつも細い目を更に細くして、笑う。
 ふにゃり、と下がった眉は、以前と同じ。でも、何故か気にならない。
「とっても、可愛いよ」
 顔を耳まで赤く染めて言う西原に、ユイも今度こそ真っ赤になった。
 恐らく生まれて初めて、父以外の男性から聞く言葉。
 聞きたくて堪らなくて、ずっとずっと望んでいたその言葉は、西原が叶えてくれた。
「ありがとうございます」
「えっと、この間はごめんね。俺、自分でも情けないって解ってるんだけど。その、俺はそのままのユイちゃんが好きだって言いたくて、だから、その、あれ……?」
 あれこれと言い募る内に、自分でも混乱してきたのだろう。収集が付かなくなって頭を抱えるばかりの西原に、ユイは明るい笑顔をひとつ向けた。
「いいんです。私こそ、ごめんなさい。私、解ったような気がしますから」
「え?」
 きょとん、と西原がユイを見つめている。相変わらず細い目だけれど、実は表情豊かで味があるのだと、今更ながらにユイは気付いた。
 

「……行ってくるね」
 振り返って栞を見れば、小さく指で丸を作っている。「ありがと」と口の動きだけで言って、ユイは玄関の扉を閉めた。
 夏の蒸し暑い夜。どこからか、甘い花の香り。
 少し先を歩く西原に追いついて、今度こそユイはその手を握った。




 (了)

 


 

 

[09年 10月 30日]

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