(10)

 小久保の背中を押して、脇をすり抜ける。手を振れば、おっとりとした微笑が返ってきた。小久保と並んだ奈々子は、鈴の鳴るような声で「バイバイ」と言う。なんという可愛らしさだろうか。
 隣で見下ろす小久保は、そのまま溶けてしまいそうな、柔らかな笑みを浮かべている。ユイには絶対に向けない笑みだ。
 それを横目で見ながら、「べーっ」とこっそり舌を出す。
 自分を好きになってくれたのは、西原が初めてだ。そう思った途端、西原に会いたくなった。
 いつ、戻ってくるのだろう? 西原の地元は、東北の筈だ。確か教育実習は土、日を挟む筈だから、実習中に一回位は、こちらに戻ってくるだろうか?
 当然の事ながら、ユイは西原のメールアドレスを知っている。
 一応恋人関係を解消してからも、ユイが西原のアドレスを消す事は無かった。単に面倒くさかったのが理由だが、今は、それ以外の理由が自分にあるような気がしてならない。
 暫く静かに考えてみよう。そう考えながら図書館に向かって歩いていると、ゼミ仲間のひとり、亜佐美に出会った。
「あれ、ユイ?」
 サバサバして気持ちの良い亜佐美だが、男を見る目は無い。現に今だって、映画研究会とかいう所で知り合った、良くわからないシナリオライター希望の男に、ふたまたを掛けられている。
「亜佐美、久しぶり。これから授業?」
「ううん。これで、終わり。今から、映研へ顔出そうと思っているんだけど」
「新作、主役なんだって?」
 映画研究会は、毎年、学園祭に合わせて何本かの自主制作映画を撮っている。吊り目の猫顔でスタイルも良い亜佐美は、その中の一本で主役を務めるのだと、栞から聞いていた。
もちろん台本を書くのは例のつまらない男で、今回の脚本(ほん)は、ひとりの男を巡ってふたりの女が争う物語らしい。なんだか、どこかの話と似ている。
「……それがさあ」
 話を振ってみたものの、常にクールで冷静な顔が曇る。どうやら、あまり明るい話題では無いらしい。亜佐美はピアスをしきりにいじりながら、詰まらなそうな声を出した。
 そう言えば彼氏という男は、亜佐美の誕生日にすら、何も買ってくれないドケチな男なのだという。『彼は映画に全てを賭けてるんだよね』などと亜佐美は庇うけれど、案外真実は、そこに無いような気がする。
「本当は、アタシが主役だった筈なのにね、彼女が主役をやるって言うのよ」
「ああ、カノジョ」
 ふたりの間で言うカノジョ≠ニは、話題のもうひとりらしい。
 家政学科に所属する彼女は、亜佐美と正反対の癒し系。でも、奈々子とは百八十度違う腹黒い癒し系、とは亜佐美の弁だ。
「どんな役なの?」
「男に浮気されながらも、結局は許してしまう女よ。アタシは、その浮気相手のほう。仕事が出来て、頭も良くて、男に媚びないの」
「へえ〜。格好良いじゃ無い」
 鼻息も荒く説明する亜佐美に言ってやれば、些か溜飲が下がったのだろう。彼女は誇らしそうに胸を張る。
「彼もね、その役のほうがアタシに向いてるって。この役は、アタシをイメージして書いたんだって言ってたのよ」
「で、結局彼は、どっちを選ぶわけ?」
「……泣き落としに負けて、彼女の所に戻るの。最低な女、でしょ?」
 外人のように大袈裟に肩を竦める亜佐美を見ながら、ユイは勝負あった≠ニ思った。所詮その男は、もうひとりの彼女のような女性が好きなのだろう。
 どんなに浮気されても彼に一途で、結局は男がいなければ生きていけなくて、そして知らず男の自尊心を擽れる女。
 でも、亜佐美はそれに気付いていない。早く気付いて欲しいと思う。多分その男は、亜佐美が傷ついてまで追いかけるような男じゃ無いこと。
 それでもユイは、亜佐美に何も言わなかった。
 言っても無駄な事もある。
 でも真実亜佐美が傷ついたなら、一晩中でも一緒に泣くし、カラオケも付き合うし、翌日の授業を考えずに飲んだって良いだろう。人には少しだけ、経験しなれば解らない痛みもある。
「そう。撮影頑張ってね。学祭の時は、必ず観にいくから」
「うん。ありがと」
 手を振って、亜佐美と別れる。そう。経験しなければ解らない痛み。飛び込んでみなければ見えない、これから。
 ユイは西原を待とうと決めた。そして、その時までに、もっと良い女になっておくのだ――と。


 


 

 

[09年 10月 29日]

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