(9)

 次の日、優人のほうは珍しく仕事が休みだった。
 日頃の寝不足を解消しようとでも言うかのように眠り続けた彼は、ようやく月も出始めようという時間になって、リビングにその姿を現した。
「おはよ」
「あ、優人さん、おはよう」
 夕方なのに、芸能人みたいな挨拶だな、と思う。
 寝癖がついた優人の髪型はぐしゃぐしゃのようで、しかし手を入れたアレンジのようで。大きな二重が目立つ男前の風貌のせいもあって、ちっとも気にならない。美形は得だ……と眺めていると、ふと優人が笑った。
「何、眺めてんの。俺、そんなに格好良い?」
「うん」
 何の気負いもなく肯定すれば、すっと顔が近づいてくる。栞はにわかに慌てた。
「まずいよ。ここ、リビング」
「問題ない」
「だって、省吾さんが……」
 抵抗しようとした台詞は、あっけなく優人の唇に吸い取られる。彼の肩に置いた手は、簡単に押し返す力を失くしていた。倒されるままに後ろに下がると、とん、と背に収納棚が当たる。まずい、と思ったときには棚が大きく揺れ、”ペッパー”が大切にしているプラモデルが滑り落ちてくる所だった。
「あ……っ!」
 咄嗟に受け止めようとした栞の手をすり抜け、プラモデルは床に落ちた。
 「一個の芸術品」から「どこにでもあるおもちゃ」に成り果ててしまったそれは、所々部品が外れ、壊れてしまっている。『兄貴の大切なコレクションだから』。省吾の言葉が、ふとよぎる。
 青ざめた栞は、おそるおそる優人を見遣った。 
 しかしそこにあったのは、予想に反して無関心な姿。怒りも、切なげな表情すら見せず、優人はそこに居る。いや彼の目の中にあるのは、栞の肉体に対する欲望の色だけだった。
「ご、ごめんなさい。これ」
「ああ、いいって。そんなもの。それより……」
 ……『そんなもの』?
 今、彼の口から出た言葉が信じられなかった。
 彼は、なによりもこのロボットアニメに心酔していた。栞とふたり、朝まで議論した事もある。盛り上がって、夜を明かして、あれほど楽しかった時間はなんだったというのだろう。いや、ちょっと待って……。
 栞は、たった今気付いた違和感に、戸惑っていた。
 仕事はほとんど夜勤のような状態の、優人。だからこそ、仕事が休みの日は、ほぼ一日中寝ている。それは夜だって、変わりない。だったら優人はいつネットを繋いでいるのだろう。思えば栞がここに同居しはじめてからこっち、優人がアニメやプラモデルの話をすることはほとんど無かった。
 セックスをする時だけ許された優人の部屋で、それらしき雑誌やDVDを見た記憶もない。あるものと言えば、バイクと車関係の雑誌、もしくはパチンコの攻略法、そんなものばかりだった。
 栞はここに来て、初めて自分が何か間違っていたことに気付いた。不信感は心の中でどんどん大きくなり、ついに彼女は目の前にいる男の胸を押し返していた。
「……アナタ、誰?」
 ぴくり、と眉を上げた優人は、楽しげに口元を歪めてみせる。それはやっと気付いたかというような皮肉気で、意地の悪い笑みだった。
「”ペッパーさん”じゃなくて、残念だったね」
 あまりの事に色を失った栞の頬をゆっくりとなぞりながら、優人は笑う。
「俺が”ペッパーさん”じゃないとすれば、本物は、どこかな?」
 答えなど、ひとつしかない。
 震える栞は怯えた視線を省吾の部屋に向けた。
「ふふ。正解。”しょうご”は”こしょう”。安直だよねえ。アイツも」
 真実は最初からそこにあったのに。栞は目の前が暗くなる思いだった。では、あの優しげな声は。全てを包んでくれそうな、深みのある話し方は。すべて省吾の演技だったということなのだろうか。
「どうして、こんな事を」
 声が喉に絡んで、ひどく掠れた。目の前に明らかにされた現実を、直ぐには受け入れられない。
「だってね、女の子達ってさ、みんなアイツに夢を見るんだ。あんな、まともに社会生活も出来なくて、大学出てからずっと引きこもりのように暮らして……ゲームだかアニメだか知らないけど、シナリオ書きだなんて言って、ずっとパソコンに向かってるばっかの奴」
「……アタシ以外に……も?」
 優人は「女の子”達”」と言った。栞の他にも、こうして騙された子達が存在するのだ。
 彼が言ったことが真実だとすれば、省吾は”業界”の人間だということになる。知識が豊富なのも、裏話を知っているのも、頷けること。その情報を餌に、”ペッパー”は女の子達を騙し、こうして栞のように愚かな女の子が、何人もこの部屋のドアを叩いた……。
 


 

 

[09年 11月 19日]

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