(8)

「もちろん、大好きだったわよ。全然格好良くもなかったけど。……ああでもそうね、外見だけなら、省吾さんにちょっと似てる」
 省吾に取っては、これ以上の皮肉は無かっただろう。しかし彼は怒るでもなく”解っている”とでも言うように、頷いただけだった。またもや肩透かしを喰った形の栞は、ますます饒舌になる。
「向こうのお母さんなんかすっごく乗り気でさ。ウチの親が認めた途端に、自分達の敷地内に家を新築したの。もちろん息子と私が住む家よ。ローンを組まなくてもいいように、自分達の貯金で建てたんだって。びっくりでしょ?」
「……羨ましい、です」
「じゃあ、省吾さんが住む?」
 省吾の返答は、馬鹿馬鹿しくて話にならない。しかし、あの狭いアパートで兄弟シェアして住んでいる林家にしてみれば、親が金を出した一戸建てなど、贅沢極まりない話なのかもしれない。
 そう言えば、あのアパートの家賃は、誰が払っているのだろう。見た所省吾は仕事を持っている風でも無いし、全て兄の優人が負担しているのだろうか。
「まあ、家の事はね、良かったのよ。アタシだって、嬉しかったしさ。でもね……」
 栞の握ったコロッケは、冷たくなり始めていた。
 衣を包んだ白い紙に油が移り、手にまでべっとりとした感触がまとわりつき始めている。栞は先を続けるため、勢いをつけるようにして、牛肉コロッケにかぶりついた。
「ウェディングドレスくらい、自分で好きなの選びたいじゃない? なーにが『栞ちゃんは、和装のほうが似合いそうだからって、ママが勝手に頼んじゃったよ』なの?! アタシの意思は、全部、無視? アタシはママと結婚するんじゃないんだから!!」
「別所さん、夜、ですから!」
 一応その辺の分別はあるのだろう。省吾が必死に栞を宥める。ようやく彼の表情に焦りが見えたことに、何故か栞は、妙な満足感を覚えた。自分でもかすかに解っている。自分が省吾の向こうに、誰を見ているか、など。
「……旦那さんは、なんて?」
「旦那じゃないよ。”元・婚約者”」
「ごめんなさい」
 ふん、と鼻で笑ってやると、省吾はまたも申し訳なさそうに首をすくめる。
 あの時の事を思い出せば、栞の頭は怒りで爆発しそうになる。夏休みが取れないと連絡が入った時、栞はそれでも冷静に返せたはずだ。「仕事なら、しょうがないね」そう言ってもあげられた筈だ。彼が仕事に対して真面目なのは知っているし、クラブ活動に熱心なのも好ましいと思っている。
 しかし、二、三日置いて再び鳴った電話。そこからはもう、怒りのせいであまり覚えていない。
 『結婚式の準備も、そろそろ始めないと』と続いた彼の言葉に絶句する栞を他所に、熱に浮かされたような野田の言葉は続いた。『式場は、こっちでママと決めたよ。とってもいい式場でね。ああ、衣装もばっちりだから』。
「なーんでもね、『ママの決めたことなら大丈夫』、なんだって」
「……」
「”解ります”なんて言ったら、怒るから」
 この男なら言いかねないと、栞は思った。野田によく似た男。意志が弱そうで、自分の意見を言うのが嫌いで。結局は自分の世界だけで生きている男。
「それで、出てきたんですか?」
 ふいに吐き出された一言は、妙に冷えていた。その強張った横顔に、思わず栞のほうが身を堅くする。罵られるのだろうか。兄と愛情で結ばれていたと思っていた女が、実はそんな逃避の果てに兄を選んだと知って、落胆したのだろうか。
「あの時のアタシは、”ペッパーさん”に救われたの。彼が親身になって話を聞いてくれたからこそ、なんとか自分を支えられた。だから、出てきたの。彼に会いたかった。彼なら、アタシを受け止めてくれると思った」
 全てを投げ打ってでも、彼に会いたかった。その後の事なんて、考えてもいなかった。彼に会えば、何もかもが幸せになるような気がしていた。
 そっと様子を伺えば、省吾は何か考えている風だった。夜道の僅かな光に照らされて、静かな横顔は怒っているようにも見える。しかし省吾の口から、栞を責める言葉は出なかった。代わりに聞こえてきたのは。
「楽なほうにばっかり逃げてると、自分みたいになっちゃいます」
 自嘲にも似た、彼の呟きだった。
 驚くほど真面目な口調。しかしその真意を問い返そうとした時には、既に見慣れたアパートの前だった。
 


 

 

[09年 11月 18日]

inserted by FC2 system