(3)

 二階建てのアパートは、新築というほどではなさそうだが、それほど古びた印象も与えなかった。
 白い外壁はさすがにあちこちヒビワレが見えるけれど、廊下とそれに付随した電灯が綺麗に掃除されている事に、栞は素直に好感を持った。安心した、と言い換えても良い。
「二階の、左側」
 どうやら、各階には二戸ずつ入居出来る部屋があるらしい。中央に階段がひとつあるだけで(もちろん緊急用の非常口は存在している)、その両側に、各部屋に伸びる廊下があるという格好だ。
 カンカン、と軽快に歩く彼の後ろを、慎重な足取りで追っていく。突き当たった先で左に折れれば、玄関先に無造作に置かれた雑誌の束に目が行く。その中に自分もよく読むアニメ関係の雑誌があるのを目ざとく見つけると、栞は途端に安堵を覚えた。やはりこの人こそが、”ペッパーさん”なのだ、と。
 手の中でチャリチャリと弄んでいた鍵を差し込むと、軽い音がして扉が開く。中は思いがけず明るく、僅かに覗いた玄関にも埃が溜まっている様子もない。
「入ってよ」
「う……ん」
 玄関の脇には、小さな台所。当然と言おうかIHらしい平らな面は、ほとんど使われている形跡がない。まさに、新品同様だ。
 四、五歩ほど進んだ先には、リビングと思しき空間があった。リビングから続く扉はふたつあって、ひとつにはバイクのポスターが貼り付けてある。
 ソファに、ローテーブル。ソファには男物らしい衣服が投げ出されている。散乱するクッションは、それほどお洒落な柄とは言えない。他に目立つものと言えば、物凄い量の雑誌だろう。車、バイク関係から始まり、パチンコ、ゲーム、アニメ。男性の必須とも言うべきいかがわしい本もあれば、栞のよく読む漫画雑誌もある。
 しかし食事の痕跡がまったく無いせいか、「雑然」とした印象はあっても汚らしくはない。それにほっとしながら見遣った先、背の高い収納棚に並んだ一際目を引く品。
「あ……」
 その声に、”ペッパー”が栞の視線の先を追う。
 そこに収められた品々を見て笑った彼の頬が、なにやら歪んでいるような気がする。どうしてそのような顔をするのだろう。彼がもっとも愛し、大切にしている物の筈なのに。
「じゃ、取りあえずテレビでも観ててよ。帰ってくんのは真夜中だから、先寝てて。あ、俺の部屋ハーレーのポスターがあるほうね」
「え?」
 乾いた声に振り返ると、彼は既に玄関先で背を丸めていた。靴を履いているのだろう。先程夢中でしがみついた細い背中は、なんの感情も見せていない。
「ちょ、待って。ねえ……」
 ガチャン、という音と共に玄関が閉まった。後に残されたのは、呆然とする栞ばかり……。そう思った矢先、バイク側では無いドアが開く音がして、栞は飛び上がらんばかりに驚いた。
「……きゃあっ!」
「あ、スミマセン」
 無言で見つめれば、出てきた相手が申し訳なさそうに頭を下げる。何故か見知った人間を思い出させるその外見は、中肉中背の猫背。歳は栞の婚約者であった男よりも随分若いが、まとうオーラは良く似ている。
「あ、アニキ、出て行っちゃいました?」
「兄貴?」
 混乱する頭で聞き返す。
 ぼんやりした表情の男性は、やはり曖昧に頷くと、頭を掻いた。グレーのジャージは、ひどくくたびれた印象。不潔さこそ無いが、決してイイ男にも見えない。少なくとも、先程の”ペッパーさん”と兄弟であるようには見えない容姿だった。
「兄貴、ゲーセンで働いてるんですよ。で、今日は遅番。……なんか食います?」
 それは、この部屋に見知らぬ女性が居ることなど、日常茶飯事という雰囲気。
 ”ペッパーの弟”を名乗る彼は、のっそりと備え付けの冷蔵庫を開けると、プリンを取り出す。栞はますます面喰らった。はい、ともうひとつをテーブルに置いて、彼はさも美味しそうに食べ始めた。
 しかし栞は、手をつける訳にもいかない。
 ひとまずその場に座ると、次々とプリンを流し込む男性を見つめる。
 ……見れば見るほど、野田を思い出させる男だ。
 柔らかそうに丸いほお。全体的になだらかな線を描く体型は、俊敏な動きなど期待出来そうもない。そして、ロッドを決して必要としないほどくるくると自然に巻かれた髪の毛。捨ててきた過去が、目の前に戻って来たような錯覚に陥る。
「あの、変なこと聞いていい?」
 遠慮がちに切り出すと、プリンを掬っていた手が一瞬止まる。しかしちらりと栞を見つめた目はすぐさまプリンに戻り、無言のままにひとつ頷いた。
「名前は、つまりえっと……苗字とか、教えてもらえる?」
 瞬間、男性は文字通り目を丸くした。
 スプーンを握る手も驚きを訴えている。思わず栞のほうが噴出してしまいそうな驚きように、返って気持ちが落ち着いて行く。彼女はテーブルの上に載ったプリンに手を伸ばすと、蓋をむき始めた。
「兄貴から、なんにも聞いてないんですか?」
「うん。全然」
「……よく付いて来ましたね」
「危ない人じゃなくて、良かった」
 正直な気持ちが、するりと口をついて出た。その様子をなんとも言えぬ顔で見つめていた相手が、「まったく兄貴は……」などと溜め息を吐いている。
 


 

 

[09年 11月 04日]

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