(2)

「そこ。必要なもんだけ持って。とりあえず、財布と携帯くらい?」
 駅構内のコインロッカー前。
 訳も解らず、栞は持っていた大きな旅行用鞄を置いていくよう言われていた。しかし、それでは困るのだ。この中には、自分の着替えやら、お気に入りの洋服やら、化粧品やら……とにかく必要なものが詰め込まれているのだから。
「でも、この中に着替えとかも……」
「そんなの、後で買えばいいよ」
 栞のささやかな抵抗は、あっけなく一言で跳ね除けられる。
 よくよく観察すれば、相当に男前の顔立ちらしい”ペッパーさん”は、眉間の辺りに軽い苛立ちが見える。聞き分けない子供を見る大人のような雰囲気で、ロッカーの扉を押さえたまま無言の圧力をかけているのだ。
 結局栞は、抗えぬままに荷物を入れ、百円玉を入れた。
「オーケー。じゃ、行こうか」
 そのまま、小さなバッグをひとつ持った腕を引きずられ、駅の構内を出てしまう。てっきり電車に乗るものとばかり思っていた栞は、混乱するままに彼の後をもつれるように付いていく。スニーカーを履いた彼の歩みは速く、踵の高いミュールを履いた足が痛む。
 やがて彼が向かった先には、一台のバイクが泊めてあった。ヤンキースのキャップを外し無造作に置かれていた赤いヘルメットを取り上げると、彼はぽん、とそれを放り投げて寄越す。
「とりあえず、乗って」
「え?」
「俺ん家、結構遠いんだ」
「……」
 咄嗟に言葉の出ない栞を残し、バイクにまたがる背中。どんな質問も受け付けないと雄弁に語るせそれに、言い知れない不安がよぎる。確か電話で会話した際の彼は、こんな人では無かった。栞の話を親身になって聞いてくれて、ほがらかに頷いてくれて。
 このまま付いて行って良いのだろうか……。
 胸中に浮かんだ不安は、至極当然のものだったろう。
「どしたの? 早く」
 しかし僅かに苛立ったような声が、栞にためらう時間を与えない。
「う、うん」
 栞は慌ててヘルメットを被ると、彼の後ろにまたがる。正直言って、キャミソールの裾が気になってしょうがない。こんな格好で来てしまったことを、初めて栞は悔やんだ。細身の自分に良く似合うと、ユイが手放しで褒めてくれた一着。
 途端に、残してきた友人や自室のベッドへの懐かしさを感じ、栞のどこかがキリキリと痛む。しかしそんな栞の感傷をよそに、二、三度アクセルをふかした彼は、振り返りもせずにバイクを発進させた。
 初めて感じるバイクの風は、お世辞にも心地よいとは言えなかった。それは、降って湧いたような、栞の不安からきたものだったかもしれない。
 ほとんど初対面に近い男性に、無理やりに近い態度でバイクに乗せられ。
 どこへとも告げられぬまま、必死に彼の背にしがみついている。
 怖い……。
 それでも栞には、目の前の細い体にしがみつく他は無かった。手を離せば振り落とされそうなほど乱暴な運転にも恐怖したが、これから自分の身に起こるかもしれない不幸にも、栞は震えているのだった。
 スカートが捲くれて、白く硬いひざ小僧が露になる。
 必死に手を動かして押しとどめようするが、まったくもって無駄なあがきだった。
  メットの中で、じわりと自分の目に涙が浮かぶのが解る。今日はもっと幸せな一日になるはずだったのに、と列車の中でこれからの甘い生活を夢見て高揚してい た自分を叱咤したくなった。憧れの人との、生活。肌を合わせるその瞬間まで思い描いていたなんて、なんて馬鹿だったろう。
 今日のために丁寧にセットした髪型は、ヘルメットのせいで崩れてしまった。時間をかけた化粧だって、だいぶ剥げてしまったに違いない。ああ、こんな時に自分は何を考えているのか。それが恐怖から来る逃避なのだと、どこか冷静な自分が判断する。
 バイクは、大通りを抜け、細い路地に入った。
 起用にハンドルを操って左、右と曲がる様子をふと見つめ、一体ここはどの辺りなのだろうかと改めて周囲を伺ってみた。
 ……思うほど、いかがわしい場所ではないようだ。
 というよりも、そこかしこに生活の匂いのする……どちらかと言えば「住宅街」と言った趣だ。
 社宅のような建物がいくつも並ぶ一帯を抜けると、一戸建ての密集する地域に出た。さらに脇にある公園を視界の端に入れながら、バイクは住宅街の一番奥まった場所で停まった。
「はい、降りて」
 先にバイクから降りた相手が、栞に手を差し出す。
 その手を握るべきかと一瞬考え、それでも栞は素直にその手を取った。
 彼を信頼したからでは無い。断った時に、彼が激高するのが怖かっただけだ。
 栞からヘルメットを受け取った彼は、彼女の分だけを抱え歩き始める。取りあえず付いていくべきなのだろうと判断した栞は、周囲を注意深く見回しながら、彼の背を追った。
  万一犯罪にでも巻き込まれるのだとしたら、果たしてこの迷路のような路地を抜けられるだろうか。それでもこの瞬間の栞が逃げ出さなかったのは、彼女のどこ かに、やはり彼を信じたいという気持ちがあったからだ。あの優しげな文章。穏やかな声。自分の心を一瞬にして捕らえてしまった数々の出来事を反芻する内 に、もはや彼女の選択肢から「逃げる」の文字は消えていた。
 取りあえず何かあった場合は、近くの民家に駆け込むのが一番良いだろうと判断して、栞は彼が指し示したアパート前に立つ。
 


 

 

[09年 11月 03日]

inserted by FC2 system