栞の「先生」は、14歳年上。高校時代の担任だった。
周囲からは”禁断の恋”と言われがちだが、栞と彼の恋愛の始まりは至極地味なもので、栞からの手紙によってふたりの交際は始まったのである。最近には珍しく、同校に在籍中は特に深い関係にも踏み込まず、いわゆる”清い交際”を続けていたふたりなのであった。
それでも当時、担任はずいぶん悩んだものらしい。しかし34歳にして女性との関係をほとんど持ち得ないほどに奥手だった野田は、最後のチャンスとばかりに、この17歳の高校生の気持ちを受け入れたらしかった。
「本当に、僕で良いの?」
そう聞かれたのは、高校を卒業した後、初めてふたりで朝を迎えた日のことだった。
やることはしっかりやっておいて、今更何を聞くのだろうと栞は些か呆れた。しかし当時は、そんな彼の純朴さに愛おしさばかりが先立った。「もちろん」と 言って抱きついた栞を受け止めた彼の肉体は、既に若者であった頃の張りを失いつつあった。が、それでも栞は、柔らかく崩れようとする彼の腹部を優しく撫で た記憶がある。
それももう、二年も前の事だ。
「……まだ、二年なのかもしれないけど」
今更、何を思い出したのだろう。電車の中ですら、努めて考えないようにして来たのに。
ひとりごちる栞の目の前には、見慣れぬ光景。
相手に指示されるままここまで来てしまったけれど、一体どのような土地なのだろうか。中部地方の都市に生まれ、ほど近くの大学に通う栞にとって、関東圏のこの辺りはまったく土地勘が無い。
亜佐美でも一緒に居れば、また違っただろう。
芸能関係を志望しているという彼女は、様々な名目で毎週のように上京している。英会話や、マナー、ウォーキング。「習い事には、お金を惜しまないわ」とい うのが、彼女の口癖だった。もっとも今回の状況は内容が内容なだけに、見かけに反して異常なほどマジメな彼女は「うん」と言ってはくれないような気がす る。
もしくは、親友のユイに頼めば付いて来てくれたかもしれない。しかし、最近ようやく彼氏と上手く行き始めたらしい彼女に話をするのは気が引けた。そうは言っても、これが人の道に外れた行いである事くらいは、栞だって理解している。
でも、もう引けない。
走り出してしまった列車は、行き着く所までいかなければ止まれないのだ。
そんな気持ちで、ユイにすら真実を告げずにここまで来てしまった。
「ペッパーさん……どんな人なのかな」
目の前を様々な人間が通り過ぎていく。駅は、社会の縮図だ。
夏休みのこの時期、昼前の時間は待ち合わせらしい学生の姿や、親子連れの姿が目立つ。そんな中、大きな荷物で明らかに人待ち顔の自分は、人の目にどんな風 に映るのだろう。実際、誰も他人のことなどほとんど気にしてはいない。それが解ってはいても、栞は自分がこれから冒そうとする罪を誰かに見透かされている ような気がして、慄いた。
そんな時、人ごみの向こうにヤンキースのキャップをかぶる男を見つけ、鼓動が跳ねる。
男は長身ではないが細 身で、実際の身長よりも背が高いように見えるのは、きっと顔が小さいせいだろう。顔は帽子の鍔に隠れてはっきり見えないが、己が良く知る相手と同じような 体格の男で無いことに、栞は少し安堵した。思い切ったつもりでも、やはりどこかに罪悪感があるのかもしれない。
”ヤンキースの帽子に、白いTシャツ”。そう書かれたメールを思い出し、間違いないと確信を強める。自分も彼に送った通り、ピンクの花柄キャミワンピにメッシュのミュールを合わせた。
人を探すような仕草で、彼が人ごみを掻き分ける。やはりあの人なのだ……。見つめる先の人物から視線を逸らせないまま、栞の胸は早鐘を打つ。どきどきが収 まらない。ずっと、会いたいと思っていたひと。ずっと憧れていた彼。文章と声でしか知らなかった彼が、もうすぐ栞の間近に来る。
栞は、思い切って軽く手を上げた。
周りにいた人間達が興味をそそられたようにこちらを向いたが、栞の見つめる先に特定の人物がいるのを確かめると、途端に興味を失ったように目を逸らす。
「あ……」
口を開きかけたが、なんと声を掛けて良いものか解らない。
固まったままの栞を見つけ、彼が幾分ホッとしたかのように頬を緩ませた。そのまま一歩、一歩と近づいてくる。栞の目の前まで来ると、小柄な栞に合わせ、すこし腰を屈めて顔を覗き込む。金に近く抜いた髪が、夏の陽を受けてきらりと光った。
「ええと、シオリ、さん?」
にかっ、と言う笑みは、聞いていたよりもずいぶん若く見える。こくり、と頷けば手が差し出され、否応も無く握られた腕を引かれて、栞は歩き出していた。
[09年 11月 01日]