”ショック”という言葉は、そのまま奈々子自身にも響いた。
ここにもひとり、母と同じような仕打ちを受けた女性がいる。男なんて、所詮皆同じなのかもしれない。新しいものが好きで、平気で何もかも捨ててしまえる。そう男なんてみんなそうだ。この、人畜無害なように見える、小久保でさえも。
「妹尾先生、可哀相です」
「本当に、気の毒だよね」
小久保の言葉が、空言のように聞こえた。本当は、小久保は妹尾に同情なんてしていない。それで当然だと思っている。妹尾の夫に共感し、それでも奈々子の手前、そう言わざるを得ないだけだ……。
かつて感じたことのないほどの怒りが、奈々子の身の内を満たした。
自分ではどうにもならないほどのそれは、簡単に奈々子の沸点を越える。言葉が止まらない。感情が溢れ出すなんて、いつもの奈々子では考えられないけれど。
「男の人なんて、みんな勝手です」
「いや、そんな……」
「そうやって好き勝手して、女の人がいくら泣いても、傷ついても知らんふり。だから私は……」
「長谷部さん?」
「だから私は、男の人が嫌いなんです!」
叫ぶように言って、ゼミ室を飛び出した。
幸いにも廊下に人影は無かったが、今の状態では、ぶつかってもまともに侘びなど言えなかっただろう。
とにかく、悔しかった。あの日見た、母の目。
憤り、憎んですら、父の意思に従うしかなかった母。怒りをぶつける先も持たず、大人の勝手に流されるまましかなかった、小さな自分。父も、母も、嫌いだった。「愛」などというものが存在するとは、絶対に信じられなかった。
「長谷部さん!」
やみくもに走る後ろから、小久保の声が近づいてくる。まさか追いかけてくるとは思わなかった。
奈々子はどうして良いのか解らず、とりあえず人の居ないだろう屋上を目指した。階段をいくつか昇った先、しかし屋上へ通じる扉は開いていない。ここは教務課の許可がなければ、入れないのだ。
どうしようかと途方に暮れた矢先、小久保の顔が階段の下に覗いた。しかし泣き顔の奈々子を見て、彼はそれ以上上がってくることもせず、そのまま階段の踊り場に腰を落ち着ける。
すんすんと鼻を鳴らしながら、奈々子は泣き続けた。
小久保の前で泣きたくはなかったが、涙が止まらなかった。
「ちょっと、いいかな」
小久保の、静かな声がした。奈々子は肯定もしなかったが、否定もしない。それに安心したように、小久保が続ける。
「ユイちゃんから、聞いたんだ。長谷部さんの家の話。あ、勝手に聞いちゃってごめん」
今更謝ってもらう必要もない。
聞いてしまったというのだから、今更何を言っても無駄だろう。ユイの勝手な判断に怒りも湧いたが、もう奈々子は言葉を発する気にはなれなかった。
「……」
「あの、さ」
何のきっかけを探して、小久保の声がさまよう。静かな階段に響いた自分の声に、彼自身が驚いたようだった。暫く、鉄骨の反響を耳にして、ゆっくりと続けた。
「お父さんが許せないって気持ちは、当然あると思うんだよ。……それは仕方のないことだし」
[09年 12月 05日]