(8)

「そんなこと」
「そんなの、誰が見ても一発でしょ! 奈々子と彼女じゃ格が違うわよ」
「亜佐美ちゃん」
 まさかこの亜佐美が、自分にこんな事を頼むとは思わなかった。
 普段必要以上にプライドの高い亜佐美である。しかし恋人との別れは、予想以上に彼女の心に傷を残したのだろうか。
「とにかく、考えておいてね。ごめん、私、電車の時間が来ちゃうから!」
 慌しく言い置いて、亜佐美は駆け出していった。今日も何かしら「レッスン」の日なのだろう。
 ヒールの高いパンプスで、よくもあそこまで全力疾走が出来るものだ。いや、亜佐美はいつも全力疾走だ。自分の夢に向かっても。男性に対しても。だからこそ、中途半端な状態が我慢ならなかったのだろう。遅かれ早かれ、今回のことは結果が出ていた筈だ。
「あ、そうだ」
 来週のゼミまでに調べなければならない課題があったことを思い出し、ゼミ室へ足を向けた。中に明かりがついている所をみると、誰か在室らしい。ユイか栞だろうか……と思い扉を開けた先には、なんとなく顔を合わせにくいと感じていた小久保の存在があった。
 向こうも奈々子を見ると、少し身構える。
 しかし柔らかな笑みだけは口元に称え、奈々子が入りやすいように場所を空けた。
「あれ、長谷部さん。お疲れ」
「お疲れさまです」
 なにが”お疲れ”なのかよく解らないが、まあ挨拶のようなものだろう。それ以上話す事柄もなく、書棚の前に立つ。そんな奈々子を直視しないよう努めながら、小久保が口を開いた。
「授業は? もう終わったの?」
「ええと、休講になっちゃいました」
「あ、そうなんだ」
 奈々子の予定では、次は”情報処理”の筈だった。あの”ミスター妹尾”。事故にあったとか言う、妹尾女史の授業のだ。
「……もしかして、妹尾先生?」
「はい」
「あ―。そっかあ」
 小久保の口調が、イマイチ歯切れが悪い。それに不可解なものを感じて振り返ると、彼は口をへの字にまげ、浮かない表情のまま手元の本をいじっていた。
「どうかしたんですか?」
「う、うん。なんか変な話聞いちゃってさ」
「変な話?」
 奈々子がじっとその瞳を覗き込むと、小久保の顔が明らかに紅潮した。まるで小学生のような反応に、知らず笑みがこぼれてしまう。それを目にして、ますます小久保の温度は上がっていく。
 彼は注意深く奈々子から目を逸らすと、ゼミ室の窓から遠くを見つめる。
 短くなり始めた秋の陽が、講義棟を照らしていた。
「妹尾先生、事故じゃないんだってさ」
「どういうことです?」
「妹尾先生……旦那さんを刺したんだって」
「……刺した?」
 噂の出所はよく解らない。
 しかし、刺したというのならば刑事事件にだってなっただろう。新聞にも載ったかもしれない。今は、ネットを探せば欲しい情報は簡単に見付かる時代だ。全学生が知るのももうすぐだろう、と小久保は続けた。
「妹尾先生が、そんな」
 確かに、妹尾は男まさりの女傑であった。しかしその分気持ちもさっぱりしていて、細かいことにはいちいち拘らない性格でもある。その妹尾が……。奈々子は驚きを隠せない。
「なんかさ、旦那さんが浮気して、家を出て行っちゃったんだって。……ショック、だったんだろうなあ」
 


 

 

[09年 12月 05日]

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