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 後期の始まった夕方の学内は、未だ休みボケの抜けない学生達で今ひとつピリッとしなかった。こうして中庭を散策していても、あちらこちらに寝転ぶ姿がある。
 色づき始めた銀杏を眺めていた奈々子は、ふと足を止めて、講義棟に目を遣った。誰かの視線を感じたからだ。
 しかしそこには友人と談笑する数人の姿があるだけで、特にこちらの様子を伺っている者はいない。やはり気のせいかと思いなおし、学食への階段を昇っていく。長い黒髪がさらりと揺れ、擦れ違う男子生徒が振り返って行った。

 自分自身は意識しないまま、誰かに見つめられている――。
 そんな経験はよくある。しかしそれが自分の美しさから来るものだという事を、いまひとつ奈々子は理解していなかった。自分が他の学生達の目にどう映るか。どのような羨望の眼差しで見られているかという事など、奈々子にとっては興味の範疇外だったのである。
「ヒ―メ」
「あ、ユイちゃん」
 後ろから声を掛けてきたのは、同じゼミに属するユイだった。ユイともうひとりの友人栞は、奈々子を「姫(ヒメ)」と呼ぶ。恥ずかしいから止めてくれと頼んだこともあるが、「やっぱり奈々子は”姫”だよ」と一蹴されてしまった。
 奈々子は、ゼミ生の誰とも仲が良い。分け隔てなく、誰とでもも付き合うこと。それは小さい頃から身に着いた、性格である。
「ヒメは、授業終った?」
「うん。みんなは?」
 今日は、ゼミの仲間達で、カラオケと飲み会の約束をしているのだった。
 表向きは「再会祝い」という事になっているけれど、その実「慰め会」であるのは誰もが知っている。慰められるのは栞と亜佐美で、もっぱら聞き役になるのがユイと奈々子だろう。
「もう来てるんじゃないかな。亜佐美は午後授業がないって言ってたし、栞は休講になってたから」
「休み明けなのに、もう休講なの?」
 呑気な教授がいたものだ。
 呆れを滲ませた声に、ユイはううん。と首を横に振った。
「あれ、奈々子知らなかったんだ」
「なに?」
「情報処理の先生、休み中に事故に遭ったんだって」
「うわあ。お気の毒ね」
 情報処理の妹尾と言えば、”ミスター妹尾”と言われるほど屈強な「女性」である。
 体格のみならず性格も相当にきつく、学生の間からは「単位が取れるかは運次第」と言われていた。年間、相当数の学生に不可を付けるので有名で、必須科目でなければ誰もが避けたい准教授である。
 もちろんユイや奈々子も受講しているのだが、栞とはクラスが別になっていて、曜日が異なる。
「ん。なんか、代わりの先生が見つかるまで、レポートが出されるみたい。もう、ラッキーなんだか違うんだか」
「ユイちゃん。ラッキーはまずいよ」
 やんわりと窘めると、ユイはぺろりと舌を出した。
「あ、ごめん。いけないよね。やっぱり。こういうこと言っちゃ」
「うん。でも、妹尾先生も人間だったんだね」
「……ヒメ」
 視線の先で、ユイがなんとも言えない微妙な顔をしている。何かまずいことを言っただろうかと見返す先で、軽い溜息を漏らした。
「相変わらずね、ヒメ」
 疲れた様な口調を不思議に思って首を傾げると、説明するのも重労働、と言いたげなユイの手が振られる。気にかからないと言ったら嘘になるが、深く追求するほどの事もないだろうと、話を続ける。
「ユイちゃん、どうだった? 夏休み」
「ん―?」
 ユイが、ひとつ先輩の西原と上手くまとまったのは聞いていた。メールで知らせてくれたのは栞で、ふたりでユイの幸せを喜び合ったのだ。……まさかその後、栞自身が消息不明になろうとは思っても見なかったのだが。
「ふつう、よ。普通」
 そっぽを向いて見せるけれど、相当に幸せだろうことは、その赤くなった頬で想像がつく。素直にのろけない所が、ユイの可愛らしい所だろう。良い恋愛をしているんだな、と奈々子は友人の幸せを心から祝福したくなった。
 


 

 

[09年 12月 04日]

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