(12)

 知らず溢れ出る涙が、言葉を遮る。しかしそれしか出来ない子供のように、亜佐美はひたすら己の涙を拳でぬぐい続けた。ひっくとしゃくりあげる声も、電話の向こうには届いているだろう。
 奈々子が柔らかな空気で口を開くのが、伝わってくる。
『”のし”付けて、おやりんさい』
「……。なに、それ。”のし”って?」
 噴き出してしまった。重い空気が一遍する。
 奈々子らしい、気遣いだった。少し笑っただけなのに、心がすっと軽くなるようだ。
 亜佐美が笑うと、奈々子も笑った。それなのに、奈々子の笑い声には、しゃくりあげるような声がまじる。そう。奈々子も電話の向こうで、笑いながら泣いているのだ。きっと、亜佐美の痛みを想像して泣いてくれているのだと気付いて、亜佐美の心は温かくなる。
『”のし紙”ってあるでしょ』
「ああ。贈り物とかにかけるやつ?』
 あの白い紙のことかと納得する。うん。と肯定を返す奈々子は、穏やかな声で続けた。
『お祖母ちゃんがね、言ってたの。お父さんが女の人の所で暮らすって出て行ったとき、お母さんに言ってた』
「……奈々子」
 そう言えば、と思い出す、奈々子の家の複雑な事情。
 今もって恋愛に興味を持てない奈々子の心に刻まれた、深い傷。痛みを抱えていてもなお、優しい友人。今は彼女の存在が、ただ有難かった。
『帰ったら、どっか行こうね。ユイちゃん達も一緒に』
「そうね」
 来週には帰るから、大事にね。と続けて奈々子の電話は切れた。恐らくはその事を伝えるための電話だったのだろう。
 気付けば、陽は傾きかけていた。カーテンをそっと開ければ、空は日暮れの橙に染まっている。
 ひとつ答えの出た心の中は、不思議と静かだった。
 この夕方を、自分は長く忘れないだろう。でも、いつか記憶の彼方に消えていく筈だ。懐かしい大学時代の一日として。そんな日が早く来れば良いと、亜佐美は切に願った。


『あの人のためを思うなら、別れて。アナタはあの人にふさわしくないわ』
『そんな……私』
 撮影は、最後のシーンを残すのみとなっていた。
 あの日と同じ、講義等の屋上。今日は快晴だ。クランクアップを間近に控え、部員達の興奮も高まっている。
『アナタの存在が、どんなに彼の重荷になっているか解ってるの? あのひとは優しいから、アナタを傷つけたくないのよ』
 そうじゃ無い。「優しい」からではない。その間逆なのだと今は知っている。
『でも、私にはあのひとしかいません。だから、別れません。私は、ずっとあのひとと歩いて行きます』
 きっと、そう、なのだろう。樹里の生きる道は、ひとつしかない。でも自分は違う。
 様々なものが見えてきた今は。彼の「才能」の真実も、実はずっと見えていたのだと、はっきり解る今は。
 ふと遠くを見れば、菅がこちらを見つめていた。
 さよなら、菅さん。
 さよなら。

『あなたがどう言おうと、彼は私のものよ。あなたとのことなんて絶対に認めないから』
 自分の心中とは、おおよそかけ離れた台詞。しかし今の自分は、完璧な「女優」である筈だ。
 あまりの迫力に、樹里までが息を呑むのが見える。

「カーット! OK!」
 終幕を宣言する越野の声が、高らかに響いた。


(亜佐美編 了)

 


 

 

[09年 11月 27日]

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