(11)

 恋敵と解っている女に、見舞いを頼む男。
 そしてそれを受け入れ、弁当を作って持ってくる女。
 ひどく滑稽な関係だった。自分が、本妻に心配される愛人になったような気分だ。これが自分の現実だとしたら、まったく普通じゃない。思わず皮肉な笑みが込み上げる。
 さてお手並みを拝見しよう……と綺麗に包まれた弁当箱を取り出したとき、亜佐美の心は今度こそばらばらに崩れてしまいそうだった。自然と弁当箱から離れるように、立ち上がる。
「あは、あはははは」
 口元を押さえながら、涙と笑みが、自然と込み上げてきた。
 青い下地に、大胆にデザインされた蝶……。
 その弁当箱は、確かに自分が誕生日に菅に贈ったものだった。
 決して、彼が使うことはないだろうと思っていた。でも、持っていてくれれば良かった。彼が、自分が贈った物を。仕舞い込まれていても良かったのだ。自分が彼に贈った、その事実だけで自分は幸福だったのだから。
「……井出さんに、これを、渡したの?」
 さすがに樹里にあげたのだとは、思いたくなかった。
 しかし、亜佐美の贈り物を他の女の手に託す。これほど傷つけられる出来事があろうか。菅にしてみれば、何気なくしたことなのかもしれない。それでも自分は……。これ以上、まともな思考は結べそうになかった。

『私は、誠実だとは思わないけれど』
 ふいに、奈々子の言葉が頭をよぎる。
 菅には「誠実」という形容詞は似合わない。
 自由で、奔放で……しかし本当にそうだろうか? 彼の生き方は、「自由」と見せかけた、ただの不誠実ではなかろうか。「自由」と言う綺麗な言葉で、真実を隠しているだけ。なんだろう、自分の存在は、彼にとってなんなのだろう……。
 嘗て無い不安がよぎる。彼と恋人になってから、一度も感じなかったと言えば嘘になる、暗い不安。熱のせいばかりでなく自分の足元がぐらつくような気がして、そのまま亜佐美は床に倒れこんだ。意識を失うように眠りに陥って、ひたすら暗闇に縋った。
 次に目が覚めたのは、枕元で鳴る携帯だった。
 ふと見れば、着信に何度か「長谷部奈々子」の名が見える。慌てて応答ボタンを押せば、心配げな奈々子の声が響いてきた。
『亜佐美ちゃん?』
「な、なこ」
『どうしたの? ひどい声。風邪ひいちゃったの?』
 柔らかい彼女の声が耳をくすぐる。
 まさしく”鈴の鳴るような声”の持ち主である彼女は、いつも優しい。亜佐美の体調を気遣うように、ゆっくりと尋ねてくる。
「うん。まあね。たいしたことないんだけど」
 優しい奈々子を、必要以上に心配させることもないだろう。そんな事を言えば、彼女のことだ。帰省先の山陰地方から、飛んできかねない。普段ぼんやりとしているくせに、ここ一番と言う時の行動力もまた、図抜けているのだ。
『本当に? 大丈夫?』
「なによ、奈々子こそ。どうしたの?」
 妙に語気が強いような気がして尋ねれば、数秒の沈黙。
 ややあって返って来た答えは、幾分固い声だった。
『だって亜佐美ちゃん……なんだかとても苦しそうだよ』
 「風邪のせいだ」とごまかす事は、容易かった。しかし今、亜佐美は奈々子に嘘をつきたくなかった。誰かに虚勢を張りたくなかった。一番素直な自分の気持ちを聞いて欲しかったのだ。
「奈々子……」
『なあに?』
「私ね」
『うん』
 沈黙が、続いた。しかし奈々子は催促しない。じっと、続きを待っている。まるで――。
 その続きを知っているかのように。
「私ね、彼と、別れることにしたよ」
『……うん』
「……」
『ねえ、亜佐美ちゃん』
「……なに?」
 


 

 

[09年 11月 27日]

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